第2回企画展

第2回企画展 平成9年2月 「山中直治展」

 

会期:平成9年2月

会場:百年記念館3階会議室


講演会「山中直治の業績について」

期日:平成9年2月15日

講師:野田市郷土博物館 金山喜昭先生

司会:運営委員 高梨綾子

(司会)

 皆様、ようこそおいで下さいました。私たちのささやかな特別展に足をおはこびいただき、感謝申し上げております。それでは、教育史料館館長の對比地校長先生にご挨拶頂きたいと思います。

(館長:對比地勇校長)

  この度、教育史料館の特別展を開催いたしましたところ、大勢の皆さんにご参加を頂きましてありがとうございました。

 この催しは、昨年、郷土博物館の金山先生を中心として山中直治特別展を開催され、これがきっかけとなり、今年度の2月15日、中央小の124回目の創立記念日に、金山先生が、特別展で講演をして下さるはこびとなりました。教育史料館の皆さんのお力により、細かい配慮をしたまとめ方をしていただいたわけでございます。 これにPTAの皆さん、そしてPTAのOBの皆さん、百年記念会の皆さん、その他大勢のみなさんのお力でこのような催しができるようになりました。

 歴史のある本校の姿を子供たちに伝えていくことが、私たちの務めではないかなと思っております。みなさま、ご協力よろしくお願いいたします。

 

 

(講師:金山喜昭先生)

 これから山中直治さんのことを少しお話させて頂きますが、写真のパネルがふんだんにございます。そういったものを示しながらお話をさせて頂きたいと思います。

 最初に、山中直治さんをほとんどの方はご存じだと思いますが、中には十分認識のない方もおありかもしれません。最初に山中直治さんについて少しお話をさせて頂きたいと思います。

 山中直治先生は童謡「かごめかごめ」を採譜した方です。これは[金山先生:冊子を手にしながら]、最近ある銀行から出たふるさとのメロディ-という冊子です。こここでは千葉県内を紹介してあります。野田市の「かごめかごめ」も取り上げられました。これは昔から野田の童謡だと言われております。どうして野田の童謡なのかと言われたときに、たぶん基になったのが、山中直治さんのお力だったのではないかと、最近判明いたしました。

 昭和8年、「かごめかごめ」という童謡が、野田で歌われていました。ほぼ全国的に歌われていたのだろうと、思われますが、野田で歌われていたこの童謡を、山中直治さんが採譜しました。採譜というのは、童謡を聞きとってそれを楽譜にすることです。楽譜にして、それを当時広島高等師範、広島大学の前身ですが、この師範学校から出している本『日本童謡民謡教集』に紹介しました。たぶんそのことが契機になり、昭和38年に岩波文庫から出版された『わらべうた』という本の中で、町田嘉章が、「かごめかごめ」が野田地方で歌われている、と解説しています。そのようなことから、「かごめかごめ」が野田地方の童謡だと全国的に広がったと言われています。いずれにしても、このような根を作ったのが山中直治先生でありました。

 山中直治先生は明治39年に梅郷村で生まれまして、存命であれば今年91歳。梅郷の大和田ということろに生家があります。今の南部小学校、当時の梅郷尋常高等小学校に入学しました。高等科を卒業し、その後千葉県師範学校、今の千葉大学教育学部のほうに進まれました。

 ここにある写真は、南部小学校、当時の梅郷尋常高等小学校の卒業式のときの写真だと言われています。 山中さんは後から2列目の右から2番目の方です。

 こちらの学生服の姿はすべて千葉の師範学校のときの写真です。仲間たちと撮った写真です。そこを出られ、19歳、大正14年にこちらの中央小学校、当時は野田尋常高等小学校の教員として採用されました。音楽の専門の教員というのではなく一般の教員としての採用でした。しかし音楽の素養をもっていた山中先生は、他のクラスの子たちにも音楽を教えていたようです。

 小学校の教員活動をしていながら、山中先生は作曲活動を初めました。昭和4年、当時の鉄道省、それから東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身ですが、)が主催した新鉄道唱歌の一般公募、それに山中先生は応募し、入選します。たぶんそのことが、作曲家としてデビュ-をするきっかけになったのではないかと思われます。

 また、昭和4年の頃に、文部省の仏教音楽協会が公募した「四恩の歌」に入選しました。昭和8年、山田耕作という作曲家が編集した『世界音楽全集 第22集』この中には山中直治先生が作曲をした「世界の子供」という歌が収録されています。それは北原白秋が作詞をしております。このように、だんだん山中直治先生の作曲家としてのイメ-ジが世の中に紹介されるようになりました。ほかに野口雨情の詩にも作曲をしています。そこで、昭和7年にはコロンビアレコ-ドの専属の作曲家になりました。コロンビアから30曲以上のレコ-ドを当時出しております。それは昭和7年頃から昭和10年の間です。出している曲は童謡が主で、若干民謡、新民謡も作曲しております。こうしてレコ-ドを通して山中直治先生の曲が、全国的に知られるようになりました。

 レコ-ド以外では、昭和8年「個人童謡全集」に山中直治童謡曲集として約50曲の作品が収録されております。こういう本も当時東京の音楽出版社から出しております。また、同じ年に興風会館で山中直治の個人童謡コンサ-トも開催しております。山中直治先生は昭和5年あたりから昭和8年、9年と作曲家としての全盛期だったと思われます。

 山中直治先生が、こちらの中央小学校に赴任した当時の写真がこちらにあります。これは大正14年ですので当時19歳のときの山中直治先生です。こちらにいる少女は当時の教え子です。戸澤写真館で記念写真を撮りました。よく見ると非常におしゃれです。現在は博物館に楽譜だとか手紙だとか、日記だとか色々収蔵してあります。平成5年の12月に山崎のご生家のほうから、若干残っていた資料を博物館にご寄贈いただきました。相当数の譜面が残っていました。それらを全部拾い出し整理したのが、正面のパネル「山中直治の作品年表」になりました。全228曲の作品が確認されました。

 「山中直治先生はプロの作曲家として活躍していた人なのですか」とよく聞かれますが、「いや、そうではなくて小学校の先生をやりながら活動をしていたのですよ。」と答えますと、意外に皆さん不思議な顔をします。それはたぶん現代的な感覚でいうと、現在は、小学校の先生をやりながらプロの作曲家もやるのは不可能です。ところが、中央小の先生をやりながら、コロンビアレコ-ドの専属の作曲家として活躍をした。どうしてそういうことができたのかというと、それは大きなキ-マンになるのは、私は、当時の校長先生の松山隆先生の才覚だったのではないかと思います。

 松山先生はこちらの写真の先生ですが、先生についてお話をします。先生は野田の生まれです。千葉師範学校、今の千葉大へ行って、その後広島の高等師範学校へ行きました。当時高等師範学校というのは、東京高等師範学校、現在の筑波大の前身ですが、それと広島高等師範学校、今の広島大教育学部。高等師範学校は全国でこの2つだけです。師範学校のワンランク上の学校です。そこに進まれて、その後愛媛県の師範学校の教官をしておりました。

 ところが、当時野田にいた松山先生の仲間や、先輩が、野田に帰ってきたらどうか、ということで、尋常高等小学校に校長先生として松山先生をお迎えしたそうです。松山先生は、優秀な先生でした。こちらに帰って来るときも、広島高等師範学校を出た仲間や愛媛県の師範の仲間をいっしょに野田に連れてきています。もともと野田尋常高等小学校は優秀な学校でしたが、松山先生が来てからも更に先生方が充実していきました。よって、子供たちに対しての教育も、現在もそうですが、大変熱心でした。松山先生が赴任したのは、それはなんと山中直治先生が赴任した年と同じ大正14年のことでした。当時40才で、松山先生は昭和12年くらいまで校長先生をしておられました。この松山先生は、山中直治さんの良き理解者でありました。ですから興風会館でおこなわれた昭和8年のコンサ-トも松山先生がチャ-タ-したようです。山中直治先生の活動を応援してくれました。

 そこで山中直治先生も良い作品をたくさん作曲できたのでしょう。山中直治先生の作品は228曲確認されていると言いましたが、たぶん他にもっとあったと思われます。資料が散逸してしまったり、中には燃えてしまったものもあるので、500から1000曲くらいあったと思われます。

 では、どういう人が詩をよせたのか。山中直治先生の交友関係がわかります。一番交友のあった方は島田さんです。この方は、「丘を越えて」という歌の作詞家です。古賀政男さんが作曲をしています。島田さんは、早稲田大学の政経学部を出て詩を志したり、俳句や短歌の文学者でした。野口雨情の弟子です。また、「海はひろいな大きいな」や「お馬の親子」の作詞者林柳波さんとのつきあいもありました。その他斎藤信夫さん、市原三郎さんとは特に親しい友人関係だったようです。この方たちは千葉師範のときの仲間です。市原三郎さんとは千葉師範で同窓生です。市原さんの紹介で斎藤さんを知りました。3人はとても深い友好関係がありました。斎藤さんもとても有名な方で代表的なものは「里の秋」があります。

 作曲活動を続ける中、昭和10年に船橋尋常高等小学校に転任します。2冊目の童謡集の出版も計画されていましたが、突然の病に倒れ、昭和12年31歳の若さでこの世を去りました。病床から作詞家の友人に良い詩を送って下さいという手紙を書いていたそうです。

 山中直治先生の業績が世に知られるようになったのは平成5年、先生の生家から多くの資料や楽譜が野田市郷土博物館に寄贈されたのが始まりです。復活コンサートなども行なわれ、市民レベルでの普及活動が注目を集めています。これからも山中直治先生の業績を野田の誇りとして、全国に広めていきたいと思っておりますので宜しくおねがいします。

 

 

(司会) 本日は貴重なお話をありがとうございました。ご出席の皆様、先生の資料がいろいろと展示してございますので、ゆっくりとご覧になって下さい。ありがとうございました。