中央小学校の沿革 昭和時代

 
昭和2年(1927年)
水道敷設工事をする。
新築鉄筋校舎の地鎮祭を挙行。校舎移転工事終了する。
昭和3年(1928年)
新築鉄筋校舎竣工。(現在も使われている三年館)
当時の校長 松山校長先生
昭和4年(1929年)
全校集合の時国旗掲揚することになる。
昭和5年(1930年)
校歌制定記念音楽会を開く。作詞、作曲堀内敬三先生。
昭和6年(1931年)
自彊館を取り壊す。
鉄筋新校舎建設の地鎮祭を行う。
昭和7年(1932年)
増築鉄筋新校舎竣工。(現在も使われている七年館)
昭和8年(1933年)
日光浴室で虚弱児の日光浴を行う。
昭和9年(1934年)
記念館にストーブの備え付けをする。
昭和10年(1935年)
全校鍛錬遠足実施。
中野台九工場の堤防が決壊、危険区域の児童を引率下校させる。
学校衛生全国表彰を受ける。
昭和12年(1937年)
防空訓練を行う。
昭和14年(1939年)
野田小学校後後援会成立。
毎月一日が興亜奉公日となり、毎朝神社参拝をするようになる。職員は禁酒、禁煙、禁茶を実行する。
校内防空監視哨を設置する。
昭和16年(1941年)
野田國民學校となる。
職員に召集令状が来るようになる。
太平洋戦争勃発。
昭和17年(1942年)
真鋳手すり帽子かけ、鉄製傘掛けを金属回収で供出する。
昭和18年(1943年)
児童の薙刀体操、日本体操を久邇宮妃殿下がご覧になる。
勤労作業が多くなる。
昭和20年(1945年)
生産作業が多くなる。
警戒警報、空襲警報の発令多くなる。
太平洋戦争終結。
かぼちゃ、ひまわりなどの種、どんぐりの蒐集。食料事情極度に悪し。
昭和21年(1946年)
母の会を結成する。
昭和22年(1947年)
野田町立野田小學校と改称する。
野田中学校誕生。校舎は表校鉄筋旧館を使用。
PTAを結成し発足する。
昭和24年(1949年)
学校放送の架線工事をする。
昭和25年(1950年)
表校東町通りに大谷石の門柱を作る。
野田市立中央小学校と改称する。
対級競技会開催。
昭和27年(1952年)
昭和28年(1953年)
創立八十周年記念式並びに表彰式を挙行する。
プール竣工式挙行。プール開き。
プール堀上の土で、東町側の土手を築き、完工する。
昭和30年(1955年)
松山記念碑除幕式を行う。
写真<現在の記念碑>
昭和31年(1956年)
宮崎分校開設。
昭和32年(1957年)
宮崎小学校独立、開校。
昭和33年(1958年)
特殊学級開設。
昭和37年(1962年)
NHKラジオ体操全国放送会場となる。
昭和38年(1963年)
裏校舎取り壊し作業開始。
昭和39年(1964年)
講堂取り壊し作業開始。
木造2階建て校舎取り壊し作業開始。
昭和40年(1965年)
新校舎竣工。管理棟及び三階建校舎。
管理棟
新館
市内小中学校相撲大会優勝。
昭和41年(1966年)
体育館落成式挙行する。(この写真は、当時のものではありません)
PTAバザーを実施する。
昭和42年(1967年)
PTA事業として理科室前に岩石園を造る。
昭和43年(1968年)
家庭教育学級開校する。
昭和44年(1969年)
校歌碑の除幕式を行う。
中野栄三郎先生揮毫校歌碑
一誠園の造園終わる。
昭和45年(1970年)
千葉県に教頭複数制がしかれ、県下初めての複数教頭が本校に実現する。
ことばの教室 裏校庭に新築校舎落成。
昭和46年(1971年)
学年別教材戸棚完成。
昭和47年(1972年)
創立百年記念世話人総会を開催する。
学校給食完全実地。センター方式。
昭和48年(1973年)
創立百年記念式典挙行。
100周年航空写真創立百周年記念事業として百年記念館建設
昭和49年(1974年)
清水台小学校独立する
昭和51年(1976年)
千葉県教育委員会功労者表彰(団体)受賞
昭和52年(1977年)
体育館照明設備完成
昭和53年(1978年)
県造形大会会場として全学級授業公開
第9回全国造形作品展に全国最優秀校となる
昭和54年(1979年)
三年館窓取替え工事完了
昭和57年(1982年)
創立百十周年記念式典挙行
百年資料館が、創立百十周年を記念して七年館二階に作られた。
博物館が、創立百十周年を記念して七年館三階に作られた。
新校旗寄贈される
昭和62年(1987年)
管理棟及び新校舎窓枠取替え並びに内外塗装工事完了
昭和63年(1988年)
七年館の内外塗装及び三年館の内外塗装完了
新校舎教室、廊下床張り工事完了