「桜井基金」
























桜井吉太郎さん 昭和15年卒

 ご自身の不遇な小学生時代の体験から、昭和39年より始められた毎日百円貯金は、桜井基金として
30年間の長きにわたり、本校に贈り続けられていました。
 基金は、主に準要保護児童の校外学習の費用や学用品代に当てられ、多くの児童の救いとなっていました。 また、創立120周年記念にあたっては、式典用グランドピアノ一式が寄贈されました。
 「ピアノから流れる音は母の声」とそえられて。


桜井さんの話

 中央小学校では、卒業式の日が近づくと、よく先生が卒業生に向かって、あるひとりの人の話をしてくださいます。その人は、桜井吉太郎さんという中華料理店のご主人です。
 桜井さんは、毎年暮れになると、中央小の恵まれない子ども達のためにと、いつも三万六千五百円のお金を寄付してくださるのです。これは毎日百円ずつ一年間貯金してくださったお金です。それらは、交通事故や病気で、親を失った子どもや、とても貧しく学用品が買えない子ども達に分けられていました。

 次のお話は平成三年ニ月十五日に桜井さんにしていただいたものです。




 わたしがこの中央小に入学したのは五十七年も前の話です。生まれた頃は家が貧しくて、八歳(数え年)になってやっと作ってもらったカスリの着物を着て、校門をくぐりました。緊張でかたくなっているわたしの胸に、赤い名札がはられ、赤い旗をもっていた先生の所に導かれていった時は、期待で胸がいっぱいでした。
 一組 赤組 亀原先生。
 若々しくて、元気のよい男の先生でした。それがわたしと亀原先生との、最初の出会いでした。
 昭和十年、時代は不況のどん底で、みな生活に困っていました。田畑が四反ほどの小作人(田を借りて生活をしている)でしたが、昭和十年から十四年にかけて、三度も大洪水、長雨や台風と続き、田畑はかなりの被害を受けました。特に十年におきた大洪水では、江戸川の土手は決壊し、稲らしい稲は一本も残っていませんでした。それから後も凶作が続き、毎日の食べる米にもこと欠いた生活でした。学校に持っていく弁当は、夕飯の残りのじゃがいもと塩があればよい方でした。亀原先生は、時々見かねて、自分の弁当をふたに半分分けて、よく食べさせてくださいました。
 三年生の初夏のことです。一、ニ年生の時は徒歩遠足でしたが、三年生では、電車で大宮公園まで行くという話を先生から聞かされました。教室中は、初めての電車遠足の話題でわきかえっていました。でも、わたしは電車賃が気がかりで明るくなれませんでした。ある日、母は近所で遠足の話を聞きつけ、わたしに、「おまえ、遠足に行くのかい。」と聞きました。わたしは、母がかわいそうで、「大きくなったら、好きな所へどこへでも行くから、今は電車賃をかけてまでして、遠足になぞ行きたくはない。」と言ってしまいました。学校へ行っても、遠足の日が近づくにつれ、友達は遠足の話でもちきりです。
 そんなある日、先生が、「きょうは、勉強ができない者の名前を呼ぶから残れ。」と言われ、わたしの名前も呼ばれました。わたしは、何で残らなければならないのかと不満でした。教室には残された四人だけになりました。

 先生はゆっくりと、「これから楽しい話をするから、よく聞いておくように。」と言われ、四人の前に茶封筒を置きました。中には二十四銭ずつ入っていました。「この中の十九銭は遠足代、残りの五銭はキャラメル代だ。そしておまえ達全員遠足に行く。いいな。」と明るい声で言われました。わたし達は、初めはびっくりしましたがその意味がはっきりするにつれ、心の底から笑いがこみ上げてきて、顔がくしゃくしゃになるほど、笑いました。いまだに忘れられない、最良の日の思い出です。
 五十年前に、現在のような豊かな福祉制度があったら、義務教育も終わらぬうちに、生活が苦しいため親は泣く泣く、自分の子どもを子守りや小僧に働きにいかせたり、娘を売ったりするようなことはなかったでしょう。

 チャリ−ン 桜井さんは、仕事が終わって一服すると、いつものように貯金箱の中に百円玉を落としました。亀原先生が亡くなって、もうすぐ二十年になります。貯金箱の中にお金を入れるとき、遠足の時の亀原先生のことが思い浮かびます。

 今年も亀原先生の命日が近づいて来ています。皆さんは、桜井さんのこんな生き方を、どう思いますか
桜 井 基 金
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