おはようございます。先日藤原さんより茶話会みたいなところで、中央小に関係したことで話しをしてもらえないかという事なので、お引き受けしたところ、いつの間にか講演会になってしまった。

今花粉症の時期ですが、私も今から五年位前に突然目がかゆく、ただれる花粉症になり、翌年から早くから薬を飲み始めたので治まっていたが、今年は飲み始めるのが遅れたのかまた症状が出始めた。一旦発症してしまうと何をやってもなかなか治らない。私が中央小にいたときに教務の森田先生が、ひどい花粉症でマスクにメガネのいで立ちで仕事をしていたので、「なんだお前は」と笑っていたのが祟ったのかもしれない。先日テレビで10月から3月の花粉が飛ぶ時期に生まれた子どもは花粉症になり易いと言っていたがどうだろうか。

今日は「中央小と私」という題を頂いたのですが、先輩の早川先生もおいでになっていますので恐れ多く話づらいです。

私は中央小の卒業生で、昭和14年野田尋常高等小学校に入学したが、三年のとき野田国民学校に名称変更し、6年間在籍しました。平成2年からは3年間校長として勤務し、合計9年間中央小と関わりを持った。

私の父母もこの学校に在籍したり、教鞭を執ったりしていた。父母ともに旭村大殿井の生まれで、この学校に勤務していたときは東町通りに住んでいたが、私が3歳のとき火災になり、清水の現在の地に転居した。母は外出先で自宅が火事と聞いたとき腰を抜かし走れなかったと言っていた。長男は中央小に入学し卒業したが、妹は清水台小が新設されたときだったので、清水台小に入学し卒業したので、親子三代に渡っての関わりもこれで終わりになるようだ。

明治5年学制発布で「むらに不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」を受けて野田でも、明治6年2月15日愛宕山西光院に愛光小学校が開校された。児童180名、教員3名だった。現在地に移ったのは明治9年茂木一族のご寄付で新築された茂木学校からだ。こうして学校ができたからといって実際には不就学者が多かったようだ。明治19年尋常小学校4年を義務教育とし、野田区に野田高等小学校4年(野田・旭・福田・梅郷・七福等より通学)が開校した。明治23年教育勅語公布。明治32年に中野台・上花輪尋常小学校と合併し一つの学校になった。明治41年尋常小学校6年が義務教育になり、高等科は2年となったが、県下で東金と野田だけは高等科3年まであったようだ。

父は明治40年に旭尋常小学校を4年で卒業し野田高等小学校に入学したが、41年に尋常小学校が6年間になったので、野田在住以外は元の学校に返されることになった。そこで上花輪の伯父の家に寄留して野田尋常小学校に通学し卒業したようだ。そのため尋常科の卒業証書を2枚頂いたことになる。高等科になると生家から通学できるようになったが、3年のときに千葉師範学校で県下小学校の競技大会があり、それに出場するため下河岸から通運丸で市川まで行き、そこから汽車で千葉まで行ったという。2名参加したが見事優勝し、帰校したら花火を揚げ町中パレードをしたということを、80周年記念誌に父が寄稿している。大正3年師範学校を卒業後、流山や福田尋常小学校に勤務し、昭和8年より8年間野田尋常高等小学校に勤務している。当時の写真がほとんど残っておらず詳細は不明です。昭和16年旭国民学校長として転任したが、旭村は出身地でもあり、知人が多く酒が飲めないと付き合いのできないところであったようだ。知人が多く酒が飲めないと付き合いのできないところであったようだ。よく知人の家に寄り込んでは飲んでいた。それが当時の楽しみだったのだろう。

母は勉強が好きだったようで、父親が援助してくれて旭尋常小学校・野田高等小学校を卒業後、千葉女子師範学校に進学。大正2年師範学校卒業後地元の旭尋常小学校に勤務。大正12年に野田尋常高等小学校に転勤したが、この年の9月1日に関東大震災に遭遇。始業式で子どもはいなかったようだが、昼頃ドンという音とともに激しい揺れがあり、あわてて外に飛び出したが、立っていられず這っていって校庭の木にしがみついていたという。講堂・校舎も被害甚大だった。本校には9年間勤務したが、昭和7年に私が生まれたのを機に退職した。当時は産前産後の休暇もなく産まれる前日まで勤務していたという。産まれた翌日にいつから出勤できるのかと聞いて釆たので、頭にきて退職してしまったと言っていた。女子職員には厳しい職場だったようだ。次の年、昭和8年に父が母の代わりに野田尋常高等小学校に赴任した。

私は生まれてから、この小学校に入るまで病弱で病院通いが多かったようだ。3歳のとき家が火災で焼失し、現在の清水の新居に引っ越したが、5歳のとき商店街の主催で明治神宮へ参拝に行った帰りに疫痢を発症した。当時疫痢は死亡率の高い病気で、一時はもう駄目だろうといわれたが、奇跡的に生き延びられ、九死に一生を得た。6歳のとき隣の野田幼稚園に通園。

昭和14年に野田尋常高等小学校に入学したが、当時の様子は昭和12年に日中戦争が始まり、日本軍が中国大陸に進出、さらに軍が政治に介入する軍国日本がはじまっていた。このため物価統制令が出され、品不足からヤミ禁制品が横行し、服装もカーキ色で5つボタンの国民服が流行した。隣組の組織が強化され回覧板が配布されるようになった。昼食の日の丸弁当が流行語になったのもこの頃です。いわゆる画一的な軍国主義教育の時代だった。

当時の小学校はキッコーマンの大変な援助で、全国的にも珍しい鉄筋の3年館、7年館ができていた。1〜3年は裏校の木造校舎で、4年になると表校に移り、東町通りに面した木造二階校舎に入った。5〜6年になると鉄筋校舎に入れたので本当に嬉しかった記憶がある。

1〜2年は宮田とき先生が、3年は海老原先生が担任だった。1年の国語の教科書の一番初めは「サイタ サイタ サクラガサイタ」で、評定は甲乙丙丁の時代だった。標語も「ぜいたくは敵だ」で、2年になると米・味噌・マッチ・砂糖が切符制になった。3年になると野田国民学校に改名され、評定も優良可になった。アメリカの対日石油輸出全面禁止もあり、とうとう12月8日に日本軍はパールハーバーを攻撃し、太平洋戦争に突入した。始まったときは連戦連勝だったので、この戦争も早く終わるだろうと考えていたが、この考えは甘かった。当時の運動会は4000名近くの児童がいたので1日では終わらず、2日間にわたって開催されていた。学芸会も興風会館で2日間行われていた。

4年になり表校の木造2階建校舎に移った。当時「男女7歳にして席を同じゅうせず」という時代だったので、4年は男子が5組、女子が5組と男女別々の組になった。4〜6年の担任は新井孝雄先生だった。いたずらをしては廊下に座らされた記憶がある。厳しい中にも優しさのある先生だった。その頃はドッチボール、鉄棒などをよくやった。家に鉄棒をつくり蹴上がりや車輪なども練習して出来るようになった。またクラス対抗のリレー大会を今の宮崎小脇のキッコーマングランドでやっていた。読み物は戦争物や偉人伝、猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍術物、漫画はのらくろや冒険だん吉等で、遊びは兵隊ゴッコやチャンバラゴッコ、城とり、メンコ、ベーゴマ、竹馬など、近所の友達ががき大将を中心にして、神社や野原などで遊び回り、上の子が下の子の面倒をよくみていた。

しかし戦況は益々悪くなり、8月には米軍がガダルカナル島に上陸し、米軍の反撃が始まった。ところが大本営発表が今の北朝鮮のような形であり、退却を転進と言っていたので敗北感がなかった。衣類も切符制になり、旅行も制限されて身動き出来ない毎日だった。「欲しがりません勝つまでは」が標語になり、寺の鐘などが供出される金属回収令がだされたのもこのころである。

5年になって、鉄筋校舎に入ったときはなにか誇らしい気持ちになったものである。戦局はさらに激しくなり、「撃ちてし止まん」が標語になり、4月に山本五十六連合艦隊司令長官がソロモン上空で戦死した。当時の日本の暗号は米軍に解読され、米軍機の待ち伏せにあったと言われている。

5月にはアッツ島玉砕。9月には動物園のトラ・ライオンなどの猛獣が薬殺。10月秋雨の中明治神宮で学徒出陣壮行会が行われた。この頃になると食料不足で、空き地は畑になり、買い出しが横行した。

4大節には今の3年館のテラス前に全校児童が集められ、明治23年に発布された教育勅語を校長が恭しく拝読し、その後訓示があった。今の子はちょっと長い時間立たせておくとバタバタ倒れるが、その当時は直立不動で聞いていたが倒れる子は少なかった。4大節とは天長節(天皇誕生日で今のみどりの日)、明治節(明治天皇の誕生日で今の文化の日)、紀元節(建国記念日)、元旦である。食料事情が良かったころは紅白饅頭がもらえたが、それももらえなくなった。

6年になると、戦況は益々不利になり、7月にサイパン島玉砕、8月には空襲に備え小学生集団疎開が始まり、10月に学徒勤労動員や17歳以上が兵役に編入され、神風特攻隊が初出撃した。学校でも夏になると学校から江戸川まで歩いていって、金杉水門あたりで水泳訓練を行った。また軍馬にやるということで草を刈って、それを干し草にして学校に持って行った。昭和20年3月に東京大空襲があり、死者2万人、焼失家屋20万戸。焼夷弾で火の海になり、焼け死んだり、川に逃れて溺れたり、誠に悲惨な状況だったという。野田からも東京方面が真っ赤になっているのが見えた。幸い野田は爆撃されなかったが、防空壕を掘って空襲警報がなると中に逃げ込んでいた。学校にいて空襲警報が鳴ると防空頭巾を被って一目散に家に逃げ帰った。午前中に解除になればまた登校した。裏校には軍隊が駐留していたので、低学年は2部授業をしていた。そんな状態なので修学旅行も中止で、卒業アルバムも全く無い。卒業式の予行の時も空襲警報が鳴り、帰宅後再登校して実施するような状態だった。この年の卒業生は610名で、男子290名、女子320名だった。その内進学者は149名(全員の約四分の一)で男子は53名《東葛飾中(東葛飾高校)21名、粕壁中(春日部高校)7名、野田農工(清水高校)21名、その他4名)、女子は96名《ほとんど野田高女(野田高校)》だった。その他の人は義務教育6年で社会に出るか、更に学習したい人は高等科(2年間)に進んだ。当時私立などは無く、入試に落ちると高等科にいき次年度に再度受験する人もいた。新井先生が課外授業をしてくれたお陰か東葛飾中に合格出来たのは当時の唯一の喜びだった。

私も6年間この学校でお世話になったが、全くもって灰色の時代だった。学校での楽しい思い出はと聞かれてもなかなか思い出せない。修学旅行や校外学習もなく、部活動や文化祭などはなかったのだから苦しい思い出が多かった。近ごろの卒業アルバムを見ると平和のありがたさをしみじみと感じる。2度とこのような小学生時代を今の子どもたちに送らせたくない。

東葛飾中1年の8月に終戦。死傷者66万人、焼失家屋230万戸。誠に悲惨な戦争だった。3年から男女共学で6・3・3制の教育体制となり、新制中学校が発足した。そのため東葛飾高校併設中学校3年を卒業後、東葛飾高校に3年間。合計6年間お世話になった。「6・3・3制野球ばかりが強くなり」の時代。次の千葉大学の時代まで野球ばかりやっていたように思う。

大学卒業後松戸2中・柏中にそれぞれ9年。柏市教育委員会に4年いて沼南町・風早中教頭へ。ここに3年間いたがほとんど生徒指導上の問題もなくよい時代だった。その後沼南町教育委員会に2年いて、初めて風早北部小学校にいった。校長として初めての小学校なので、朝礼などで子どもに話すのにどうしても中学生に話すような言葉になり苦労した。先輩の先生に「2年生に分かるような話をしろ」と言われ参考になった。当時は今と違い新規採用の先生が多く、学校に活気があったが、2年目に公開研究会があり、全員授業公開ということで指導技術の未熟な者が多く困ってしまった。そこで共済組合のホテルで合宿研修をやったりしたが、今では考えられないことだった。本校の岡田美津江先生もいた。

その後県教育庁東葛飾地方出張所に2年いて、柏中・西原中に赴任したが、特に柏中は2000名を越える日本一の大規模校ということで、毎日なにか生徒の問題を抱え一日として気の休まることがなかった。

そして平成2年度に野田中央小に着任した。着任して驚いた事がいくつかあった。特に施設面で3年館、7年館の旧館の廊下に電灯がないことや旧館と新舘の廊下が連絡していないことだった。さらに校長室の机やテーブルは古く昔のままだったし、校庭も雨だと泥田のようになっていた。次年度に廊下の電灯と新旧館の壁を貫通してもらった。

職員は50数名いたが男子は14〜5名で女子が多かった。中央小の先生は優秀な先生が多かったがすべてという訳ではなかった。人気のある先生は持ち上がりを保護者から直訴されたこともあったが、反面次年度は担任を変えて欲しいと言われたこともあった。3年間で教頭、教務が毎年変わっり、変わらないのは校長だけだった。教頭は高橋先生、野村先生、岩井先生、濱谷先生。教務は木村先生(現在の木村教頭)、坪谷先生、森田先生。いずれも1年間のお付き合いだった。新規採用の先生が2年度に3名入って釆たが、その後は児童数の減少でどこの学校も新しい先生は採用されなくなってしまつた。

PTAも会長が毎年変わった。坂本会長、染谷会長、勝田会長である。PTAは学校に協力的な方々が多く助けられることが多った。PTA会費が14年間100円に据え置かれており、運営にも支障があったので、他校の会費を調査し200円に値上げしてもらった。

運動会では、平成2年度には雨で午前で中止になり、翌日午後の部を実施した。平成3年度は前日の大雨で校庭が水浸しだったので、朝児童・職員が総出で雑巾で水を吸い取り時刻を遅らせて実施することが出来た。この様子を見ていたPTAや同窓会の方々が市に働きかけて頂き、翌年に校庭工事が始まり、現在の水捌けの良い校庭になったのである。平成4年の120周年記念運動会は好天に恵まれ、秋晴れのなか同窓会長寄贈の新しい優勝旗の争奪を目指して紅白の白熱した競技が展開された。

修学旅行では毎年日光に行っていたが、平成3年度は6月17日に湯の屋旅館に宿泊したが、帰校し翌日の新聞を見たら、18日に宿泊した八王子市立松枝小が食中毒になったという記事が出ていたので、驚いて本校の児童を調べたが幸いにも被害者はいなかった。1日違いで難を逃れた訳である。
                                                       平成3年度より中央小フェスティバルを始めた。文化祭と歌声発表会を一本化し、PTAのご協力を頂さバザーや模擬店等もやって頂いた。さらに校庭で親子で遊ぶふれあい広場も計画した。

部活動は全く不振だった。3年間で陸上大会は5位が最高。サッカーやバスケットも不振。現在中央小が陸上で連覇しているのだから指導者の問題だったのだろう。唯一強かったのは水泳部とPTAのバレー部だけだった。水泳はキッコーマンスイミングスクールに入っていた児童が強かったためである。PTAバレーは毎年野田大会で優勝、東葛大会でも好成績をおさめ県大会に2度出場している。

公開研究会を隔年で2度行った。平成2年度に放送教育利用研究会を、平成4年度には生活科・社会科研究会を公開した。職員は大変熱心で自費で遠方まで資料を収集しにいくものもいた。

卒業遠足は清水公園でアスレチックを実施していたが、アンケートを取ったらディズニーランドの希望が多かったので、平成3年度よりディズニーランドに行くことにした。卒業記念品は、平成2年度は職員の下駄箱に蓋をしてもらい、その上に醤油づくりの絵を描いた。3年度は校章入りの演台カバーを、4年度は新館の4階に野田中央小の文字を掲げてもらった。なんといっても1番の思い出は平成4年度の120周年記念行事だが、特に同窓会長の茂木七左衞門様より多額のご寄付を頂き、教育史料館が開館された事が最も大きな事業であった。百年記念館の2階にあった図書室を改装したもので、東京の育英小学校を見学し参考にさせて頂いた。1年生が図書の運搬をしてくれたり、職員やPTAの有志の方が書架を運搬したり、5年生が資料館にあった資料を記念館に運んでくれたりした。2月14日の記念式典の折り史料舘のテープカットが行われた。それから10年有志の方々の努力で益々充実したものになっている。

寄付といえば桜井吉太郎さんの事を忘れる訳にいかない。桜井さんは小学生のころ貧しく父が出稼ぎに出ていたが、事故死をしてしまいその後母親に育てられたという。3年のとき大宮へ電車遠足に行くのに会費が払えずあきらめていたとき、担任の先生が会費を出してくれ行くことができた。そのときの感激が生涯忘れられず、東京で中華料理店主として成功してからは毎日売上の内から100円ずつ貯金し、1年で36500円集まると、中央小に貧しい子のためにと届けて頂いた。120周年のときはグランドピアノ1台を寄贈して頂き、「ピアノから流れる音は母の声」という言葉が添えられていた。

時間がきたのでこの辺で終わりにしたいと思いますが、中央小の3年間は本当に楽しく、教職生活の最後を母校で終われたのは望外の幸せでした。ご清聴ありがとうございました。

2003年3月1日
記念館3階にて
ご挨拶 運営委員 梨綾子

おはようございます。きょうは足元のお悪い中、おはこび下さいましてありがとうございます。本来なら当教育史料館館長であります原田校長よりご挨拶申し上げるところですが、校長会のためかわりにご挨拶申し上げます。

この4日間、中央小創立130周年記念の小さな展示会を開催して参りましたが、今日はその最後の締めとして、中央小の重鎮金子光男元校長先生に講演をお願いいたしました。金子先生は本校の卒業生でありますと共に、ご両親様共々親子二代にわたって本校の教職にあられました。ご家族や先生の中央小にまつわるお話をたくさん伺えるものと楽しみにしております。

そして、子ども達に中央小はどんな学校だったのか、自分達のルーツを探り、自分達の目で教育史を理解してもらいたいと思います。地元の方もそれ以外の方も、教育史料館を一度訪れてくださいますよう、あらためてお願いいたします。
金子光男元校長先生
たくさんの方が熱心に講演を聞いてくださいました。
金子先生の時代のPTA会長、勝田茂氏より花束の贈呈
「中央小と私」
金子光男校長先生講演会
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