泰緬鉄道建設体験記 第九鉄道隊資料から

体験を語る 鶴田 勝 元陸軍少尉

 

泰緬鉄道建設に命令により連合軍捕虜を使用した。それが捕虜虐待・・・戦犯となり戦後多数の犠牲を生んだ。鶴田氏の体験を転載して捕虜使用の実態を紹介します。

泰緬鉄道は東京―大垣間の距離があり、それを全区間同時に着工したので多数の現場がありました。鶴田氏の現場はそのひとつで比較的恵まれた状態でした。

「簡単な構造で手近な材料で、早く修理出来る木橋こそ、戦場に架ける橋に適している



 

1942年 泰国

 

「昭和十七年十月 ターマカムキャンプ」

しのつくようなスコールが通り過ぎると、椰子のざわめきも元の静けさに返って、時折もれる薄日に映える郷子林の緑が目にしみる様に美しかった。雨期あけも近いのだろう、近頃は長雨も少なくなってつかの間の通り雨のようになったがクワイ河はまだとうとうと流れていて減水のきざしは見えなかった。昭和十七年十月のはじめ、此処ターマカムキャンプもそろそろ雨期もあけようとしていた。「さすがタイ人の云う通りだ! そろそろ雨期もあけるぞ。又河岸に行ってみるかな」私は独りつぶやきながら煙草の火をもみ消した。ニッパハウスの宿舎の窓からは程近く流れている、クワイ河の河岸の茂みが見える。こんもりとした茂みは、緑に映え雨上りのしずくの音が聞こえるような静けさである。

 

「クワイ河マーチ」

その時、郷子株の向うから、かすかな口笛のマーチが聞こえて来た。口笛は次第に近づき、口笛と軍靴の旋律は大きな集団のマーチとなって、軽快に、しかも整然と追って来るのだ。 これがカーネル・ボーギーマーチ、後に映画「戦場にかける橋」のテーマ音楽となった「クワイ河マーチ」で云わば我々と俘虜との出逢いであった。「ほう! なかなかやるもんだ、とうとうおいでなさったな」マーチはやがて目の前に近づいて、英軍俘虜の一隊が手にとるように見えはじめた。ベレー帽をかぶり、スカートをはいたこの英兵はスコットランド兵だった。

「スカートをはいた兵隊か! 面白い兵隊があったもんだ」「始めと終りじゃ、ベレー帽の色が違いますね」「階級が違うのかな? いや連隊が違うんだろう」

「へえ! でっかいな、体格もいいし、元気もいい、何だって俘虜になんかなりやがったんだろう?」俘虜になるからにはきっと、病気か、負傷していてやむをえず俘虜になったに違いない、と云う観念があった。吾々が想像していた俘虜は、弱々しい兵士を想像していたのである。 此処は、ターマカム六中隊キャンプ、もう設営も終って俘虜の第一陣が到着したのである。

その日は一日中俘虜の話でもちきりだった。それを皮切りにして、連日のように俘虜の集団が次々と到着し、総勢千二百人位になったと思う。そのほとんどが英国兵で、その中に多少の濠洲兵がいた。吾々はかつてマレー戦では敵だった彼等の一挙一動に興味の目をもってながめていたのも無理はない。クワイ河の水位は、タイミングを合わせたように下がり始めた。いよいよクワイ河木橋架橋が開始されることになった。

 

「捕虜使役の注意」

中隊長代理の広岡少尉は、全員を集めて訓示され、特に俘虜使用については無用のトラブルを防止するため次のような注意を与えたと記憶している。

「俘虜の宿営、給養、衛生、日常管理ではすべて捕虜収容所が管理し、鉄道隊は作業においてのみ俘虜を使役できる。俘虜の取り扱いについては、赤十字条約(ジュネーブ条約)によって定められているが、日本はこの条約を批准していない。しかし人道上の立場からこの条約の趣旨は尊重しなければならない」 

更に、俘虜の就役は大本営命令であること

 俘虜将校は原則として就役せしめないこと

 俘虜には休日を与え、就役時間を守ること

 俘虜には規定により給料が支払われること

 俘虜には私的制裁を加えないこと

 又実務的には、各隊に労務係をおき、労務係は毎朝定刻に収容所に行き、俘虜を受領し、作業終了とともに、定刻には収容所に俘虜を返納すること。人員の掌握は、特に正確を期すること。俘虜とのトラブルは避け、万一トラブルが生じた時は、上官に報告すること。俘虜は、戦力の一部と心得えて温存し、無役な損傷を避けること……等、の諸事項が下達された。

「不安な捕虜使役」

 訓示が終ると、吾々は何か複雑な気持になって、がやがやと雑談が交わされた。

「とんだ面倒なものを、背負い込んだぞ」 「馬鹿云え! 大助かりと云うもんだ、体格もいいし、俺達より力がありそうだぞ」 「何云ってるんだ、奴等が本気で働くと思っているのか? 反乱でも起きたらどうするんだ。千人以上もいるって云うじゃねえか!」「ところで貴様英語話せるのか?」「馬鹿云え! 向こうは俘虜だぞ、向こうが日本語覚えるのが当り前だ! そうだろう」よしそんなら俺が教えてやらあ」「こりゃ面白え! 何だか面白くなって来たぞ」「そうよ、先ずはお手並み拝見って訳だ。ところで俘虜の中に、鉄道兵ってのはいるのかな?」「英国って云えばヽ蒸気機関車の本場だ。鉄道兵位はいるだろう……と思うんだが、そいつは分からねえ。来てみてからのお楽しみだ」

「英国の鉄道兵のお手並み拝見が楽しみだぞ。この橋梁が出来上がったとしても、まだまだ奥の作業はいくらでもある。鉄道が完成したって後の補修って仕事もあるんだ。こいつは俘虜とは、長いつきあいになりそうだ!」「奴等が作業に熟練すればヽ俺たちも楽になるって訳だ。奴等が消耗すれば、俺達の損になるんだ」

 なにげなく交わされる雑談の中にもヽ俘虜に対する心構えが、自然と培われて来るようであるが、第一の疑問点は果して彼等が日本軍に協力して働くだろうかと云うことだった。誰もが初めて直面した俘虜就役に、こんな不安と、期待が交錯していた。

「クワイ河木橋の構造」

 ここで、クワイ河橋梁はどのような構造であったろうか。先ず木橋について述べると、云うならば、鉄道隊が架ける最も標準的な橋である。これは吾々が列柱と呼んでいた型式のもので、杭を打って、その上に木桁を渡す。出来上りは一見、江の島の桟橋のように、杭が沢山並んだ細長い橋で、何処にも見られるような極めて平凡な橋である。杭は末口三〇糎、長さ10−12米のものを、一列に5本打抗し、その両端には「振レ止メ」と称する抗を一本づつ打ち、更に上流側には、流水よけの抗を打つ。つまり8本となる。この一列の抗は、杭の方向をよく修整して、頭を切り落とし、その上に冠付と称する角材をのせ、その上に桁受けと称する角材をのせて、桁を渡すのである。                              経間(スパンと云い、一列の杭と杭との間隔、つまり桁の長さともなる)は五米、橋の中央部二経間は、舟運と考慮して6米とした。橋梁の全長は約180米で、経間数45、杭の数は概算360本位になる。 第六中隊では作業分担は次のように決まった

 打杭作業(左岸)第三小隊(油屋隊)

     (右岸)第二小隊(鶴田隊)

 整備及桁構築作業 第四小隊(渡辺隊)

 取付路銀構築作業  第一小隊(広岡隊)

 

「建設工法」

 打杭は椚橋を使用し、モンキーと称する錘の落下を利用して抗を打つ方式である。油屋隊は石油エンジンを使用して打杭作業をした。私の隊は、俘虜の人力でモンキーを使用することになった。椚橋と云うのは、だるま舟のような大きな舟二隻を横に並べる。但し中央で杭を打てるように、適宜の間隙をとり、機材で画定し、その上に櫓を組んで、杭を打つ装置を取りつけ、舟の上で作業ができるので河中に入る必要はない。

「虚偽の虐待情報」

 最近ある図書で、クワイ河水橋架橋では、俘虜は終日水につかって打杭作業をした。と云う記事を見たことがあるが、これは全く嘘で、恐らく著者は椚橋を知らず、勝手な(悪意の)想像で書いたものだろう。

「クワイ河鉄橋の構造」

クワイ河鉄橋は、コンクリート橋脚の上に、アーチ型の.トラス(組桁)を架けたもので、トラスの部分、全長約200米、それに右岸の地上部分は、前述のような抗を打って、水桁を渡した列柱方式の部分が約80米、合計280米程になる大きな橋である。

 アーチ型のトラスのある一部は、連合軍の空爆で爆破され、その後梯型のトラスで、修理されて現在に至っている。右岸の列桂部分は、その後プレート・ガーター(鋼板桁)に補修されて現在に至っている。トラスの部分は、スパン22米のものが11スパンだった。作業担当は次の通りであった。

  コンクリート橋脚構築 鉄九第五中隊、 トラス構築 第四特設工務隊

但し、トラスはジャワより撤収して分解、輸送して現地で組立てて使用したものである。

 

「橋脚の構築」

コンクリート構脚の構築方法は、ウエリングエ法(井筒工法)で簡単に言うならば、河中に沢山の杭を打って、内側を根で囲んで、内部を土で埋めて島を作る。その島の上に、コンクリートでの筒を作って、筒の内部をガットメルという機械で掘るとこの筒は重みで沈下して行く。その上に更に、コンクリートで筒を継ぎ足してゆき、次第に河底深く迄伸ばしてゆき、河底の岩盤の層まで堀り下げて、橋脚を構築する。上部はコンクリートで所定の高さまで構脚を伸ばして行く方法である。このことは当時第五中隊にあって、直接作業に従事した根田氏の談によるもので、同氏は応召当時、東京市土木課の技術者として、四ツ木橋橋梁(東京荒川放水路に架かる大きな橋)に関係しておられた方である。同氏いわく「四ツ木橋と全く同じウエリングエ法だったので、何かと四つ木橋架橋の経験が生かされた」と当時を回顧して私に話された。

 

「建設工事作業」

 左岸の資材集積場の近くでは、椚橋が出来上がって、いよいよ対岸に移すことになった。数隻のポンポン船に曳かれて、釣橋は岸を離れると、やがて河の中央に出た。減水しているとはいえとうとうたる流れは、椚橋を押し流す程の勢いである。波が船首に砕けて椚橋は大きく揺れ始めた。ポンポン船はエンジンをフル廻転させて、懸命の曳船である。河岸で見守る吾々も、手に汗を握る中に椚橋は無事右岸に接岸した。誠に大御輿が大河を渡るような壮観さであった。椚橋は錨を下ろし、幾本ものロープで岸につながれて、本作業の打抗を待つことになった。

「捕虜受領」

 今日から俘虜就役だと云うので、労務係の三橋伍長と私は緊張して俘虜収容所の門を入った。どちらを向いても俘虜ばかりで、しかも彼等は丸腰、三々五々鼻歌まじりでぶらぶらしている様子が、吾々には何か聞か抜けたような、のどかさを感じさせ、一種戸惑いを感じた。収容所の軍属は心よく吾々を迎えてくれた。収容所側も初めての就役とあって、大変な気の使いようで、所長の小坂出中尉が吾々を出迎え、担当の斎藤軍曹や、軍属を紹介し、今後の俘虜受領、返納等についての実務上の連絡を終ると、「ではよろしく御願いします」と彼は云われ、しばらく俘虜受領の様子を眺めていた。吾が子を手離す親心にも似た心配があったのだろう。

 

 吾々が受領する人員は四〇名で、この一隊は広場で、二列横隊になって待機していた。吾々が近づくと一瞬緊張した様子だったが、直ぐに口笛やら笑い声で、子供のようにはしゃいでいた。この時の彼等の気持は、後に私が獄につながれた時、初めて理解出来たのだった。束縛された環境から、所外作業に出ると云うことは、外の自由の空気を吸えると云う、大きな喜びを感じるものである。彼等はその喜びを口笛で端的に表現したのだろう。しかしその時、私は何と規律のない連中だと思った。彼等は全員スコットランド兵だった。背の高い中尉が一人、前に出て私に敬礼し、彼等に号令をかけた。

 「ホールイン (整列)」 「ナンバー(番号)」

すると前列右端から「ワン」「ツー」「スリー」そしてこの将校は私に再び敬礼した。私は答礼すると心の中でつぶやいた。何だ。まるっきり日本軍と同じだな。むこうも軍人、こちらも軍人、話が早いぞ、こりゃうまく行きそうだ。

 この将校を加えると四一名になる。この将校は就役するのではなく、部下の監督に来るのだった。小坂出中尉は私にこう説明した。「俘虜の将校は就役させませんからそのつもりでいて下さい。彼は部下の監督者として、自発的に参加しているんです。仕事の指示等は彼を通して、伝えた方がうまく行くでしょう。返納はきちんとして下さい。

但し作業の都合で少々のことは仕方ありませんがね」

「わかりました。トラブルが起きたらこの将校と話し合いましょう。何分、今日は初めてのことです。今日の経過は御報告いたします」 俘虜たちは興味深そうに我々のほうに視線を向けていたがもちろん話の内容はわからないだろう。これで受領は終わった。私は何気なくこの中尉にOKと念を押すように云うと、彼は大きくうなずいて「OK」そして部下に号令をかけた。

 

「捕虜の行進と渡河」

「ライトターン」、「マーチ」かくて俘虜の一隊は、堂々と隊伍を組んで収容所の門を出ると、クワイ河畔の架橋現場へ向かった。奇声を上げる者、大声で笑いこける者、そしていつしかそれが口笛のマーチに変わった。彼等得意のクワイ河マーチである。行く手にはクワイ河がとうとうと流れていた。我々の作祭場は対岸なので、往復は舟によらなければならない。舟は現地の焼玉エンジンの小舟で、15人も乗れば満員となる。舟着場にはこの渡し舟の担当者がいて作業員の往復や連絡の任に当っていたが、これは整備隊たる渡辺小隊の担当で東伍長が責任者だった。「いよいよ今日から俘虜の就役ですね。奴等大さいな! これじゃあまり多くは乗せられない。私にも責任がありますから」 彼は任務に忠実で俘虜とて、決して無理して乗せなかった。

 「まあ、その分だけ余計に往復すればいいですから」俘虜達は舟が動き出すと、ますますはしゃぎ出して子供の遠足のようだ。呉越同舟とはこのことだろう。一つの小さな舟の中では俘虜も、味方も区別なくひとつの人間の集団だった。対岸の茂みが、次第に近づいて接岸しようとした時、「ジャボンー」鈍い音がして河面に大きな波紋が拡がった。期せずして奇声と歓声が上って、舟は大きく動揺する。咄嵯に私の頭には不安がひらめいた。

  「さては俘虜の謀略‥ 油断すまいぞ!」 水面を凝視する真剣な顔…… だが波紋は大きく拡がるだけで、何事も起きない、とその時、岸の水際に黒い影が現れて、叉バチャリー新たな波絞が拡がると、すいすいと泳いで岸の茂みに消えていった。「鰐だ。鰐だ!」俘虜も我々もさわぎ出したが、これが大トカゲだとわかると大笑いとなって幕となった。こんなことがあって、俘虜と我々は初めから何となく、うちとけるような気持になっていた。

 

 

「捕虜の作業能力」

 作業の手始めは、材料運搬からである。「鳶職はいないか?」と聞いたところが、さて言葉がわからない。「カーペンター(大工)はいるか?」とやってみたが、さっぱり通じない。仕方ないのであの手、この年と、身振り手まねで聞いてみたが、俘虜は笑っているばかりだった。「仕方のない奴等だな」 私も思わず笑ってしまった。どうやら彼等は、素人ばかりと気がつくと、丸太や角材の持ち方から、数えなければならないことになった。内田軍曹と私は相談の結果、動作で示すことにした。「こうやるんだ」と数回やってみせると、彼等はうなずいていたが、中尉が出て来て「OK、OK」 そう云いなら何やら詳しく説明を始めた。どうやら彼等も理解したらしい。腕で上げて肩に乗せて運搬する。言葉で云えば簡単だが、これはなかなかむずかしい。鉄道兵では重材料運搬と称する一つの作業で、初年兵でもこれを修得するには少々の時間がかかる。まして危険を伴うので、細心の注意が必要だ。この将校はOK,OKと気安く答えたが、さて結果はどんなものだろうと、吾々は期せずして彼等の動作に注目した。中尉の号令で俘虜連は、角材にとりかかると簡単に腕に上げた。さて肩に乗せたと恩ったら、さあ、いけない。「ノーグッド、ノーグッド」彼等は悲鳴を上げて、角材を放り出してしまった。吾々も仲間の俘虜も大笑いだった。幾度やってみても結果は同じだった。彼等は肩に手を当て、ノーグッドの連発である。吾々はすっかり頭をかかえでしまった。「でかいくせに駄目だね、見かけ倒しだ」、「やる気がないのかね」……結論的には日本人とは体格の相異で、日本式のやり方では、彼等には合わないことが分かった。彼等流のやり方は、腕をL型に曲げて、その上に角材を乗せて運搬する。腕の力は想像以上に強く、肩の力は話にならない程弱いことが分かった。体格や、習慣の相違による作業のやり方の違いは、その後もしばしば色々の面に表れた。吾々もその都度、戸惑ったが最良の方法は、目的を示して、その手順や方法は彼等にまかせることだった。そうと分かればこちらもやり易い。が技術を要する杵築や、複雑な作業はそう簡単には行かない。従って単純作業が最も適していることが分かったのだが、さてそうなると我々の打杭作業では、彼等の協力を期待出来る作業は、甚だしく限定されることになる訳だ。しばらくして彼等は高い所で行う作業も、不得手であることがわかった。その反面、ハンマーで釘を打つ作業は大したものであった。後にわかることだが犬釘等を、枕木に打つのに日本兵なら五、六回も打つところを、彼等はフリーハンマーで二、三回で打ってのけると云う凄い特性を持っていた。そんなこんなで、その日はとうく仕事にならなかったが、就役第一日としては目に見えない大きな収穫があった。

「東條ボーイ」

 俘虜の中尉は、応召の若いスコットランド兵だった。シンガポールに来て3ヶ月も経たない内に、俘虜になったとこぼしていた。ウェールズの大学を出たと称していた。文科系らしく、技術に関しては詳しくなかったが、スポーツマンらしく明朗快活で、部下の信頼も厚く掌握もよかった。彼はそれ以来いつも、私の作業場に部下と共に来て、部下の指導や、私の片言の英語を通訳してくれた。「あなたは大尉ですか? 私は中尉です」彼は私の階級章を見て、こう話しかけて来た。見習士官は金筋一本に星3つだ。彼は星3つを見て大尉と思ったのである。

「私は大尉ではない、将校の卵だ、もう直ぐ少尉になるところだ」私は見習士官と云う適当な英語がわからなかったので、このように説明すると、「おお、あなたはトウジョー(東條)ボーイ』彼はドイツのヒットラーユーゲントを想い出したのだろう。目をぱちくりさせながら、仲間の俘虜に説明していた。彼は何か勘違いしたようだが、私は敢えて否定はしなかった。それ以来彼等は、私のことを東條ボーイと呼ぶようになった。その夜の中隊の将校室では俘虜就役の報告でにぎやかだった。油座隊も渡辺隊もほぼ私の隊と同様の結果で、腕力が強いから曳綱を引く作業は適役だと云うことになったが、困ったのは渡辺隊である。

「弱りましたな! 桁かけ作業は俘虜には向かんらしい、まあ材料運搬でもやらせますかな!それでも少しは助かりますよ」少々当てが外れたと云わんばかりである。そして一致した意見は、当分同じメンバーにして欲しいと云うことだった。それは時期をかければ、何とか習熟するだろうと云う期待があったからだ。 俘虜は、P中尉を含めて同じメンバーがやって来た。三柳伍長の引率するこの一隊は、例によってクワイ河マーチの口笛を吹きながら、作業場に現れると、P中尉はいつも私に朝の挨拶をするのだった。

グッドモーニングー 東條ボーイー 今日の作業は何の作業だ」

 

「打杭作業」

 いよいよ本作業の打杭作業にかかることになった。「今日から杭打ちだ。皆はこの手綱を引く作業だ」 「OK、OK」彼は腕を叩くと、如何にもそんなことは簡単と云わんばかりである。先ず吾々がやって見せた。西永軍曹は櫓の上で掛け声をかける。「一、二の三よ」兵隊は手つきよろしく手綱を引くと、モンキー(錘り)が高く上がって、ドカーン、と抗を打ち込んだ。続いて二回、三回…… 俘虜は見学である。P中尉は部下の俘虜に何やら説明し終ると、今度は俘虜が手綱を引くことになった。河水軍曹は櫓の上で一段と張り切って、「一、二の三よ」ところがモンキーは一向に上がらない。笑い声がどっと起こった。西永軍費は再び大声で、一、二、の三よ」これも結果は同じだった。気合いが揃わないのだ。「一、二の三よ」これは鉄道兵操典で、定められた手綱の引き方である。鉄道兵は初めて入隊した時から、この手法で教育され統一されている。最も初歩的で標準的な動作である。これが通用しないとあっては、(事荒天)で少々あきれかえったが、相手が(坪庭)とあれば仕方がない。「作業止メ」ここで作業を中止し、全員集合の上、対策を講じることになった。「こんなことでは仕事にならぬ、日本兵だけでやった方がましだ」「ワン、ツー、スリーにしたらどうだ。「彼等は俘虜だ、日本軍のやり方に従うべきだ。一、二の三を覚えさせればいい」等、意見続出である。この際体面はどうあっても、能率を上げることとして、結論的には引き手の中に日本兵が混じって、“ワン、ツー、スリー”の掛け声でやることになった。P中尉は、「ベリーグッドOK、OK」……そして西永軍曹は再び、櫓の上から始めた。「ワン、ツー、スリー」 日本兵の歩調に合わせて俘虜も手綱を引き、まずまずの出来である。「よし!これで行くぞ!」 こんな調子で打杭が始まったのだが、所要時間は問題にならなかった。 打杭一本が終わると、そのつど椚橋を下流に少々移動しなければならない。そのつど椚橋のロープを緩め、次の打抗の準備をしなければならない。これこそ習熟が必要なので、この作業は全部日本兵だった。手際よく作業を片付ける我々の中に、俘虜が混じっていると足手まといで面倒だと云うのだ。そんなことで打抗当初は、一日に二、三本の打杭しか出来なかった。総打抗本数360本として、片岸180本、これを1ケ月で打抗するには、休日もあるから、一日平均七本の打抗をしなければならないのだ。 

「石油エンジン工法」

左岸の油屋隊は、石油エンジン打抗である。椚橋を使わず専ら、足場を前へ前へと出しながら打杭して行く方式を採った。俘虜を椚橋に乗せて、人力で打杭する吾々とは全く対称的だった。一台しかないエンジンに油屋少尉がほれこんで飛びつくと、西永軍曹は意地にもエンジンは要らないと云う。彼は私にこんなことを云っていた。「石油エンジンですか、あれは考えものですよ、どんなエンジンか知りませんがね。 人力の方が早いですよ。エンジンは油座隊にまかせましょう。こちとらは人力でたくさんだ」彼はマレー大戦以来、油座少尉と張り合う恰好になっていたらしい。西永軍曹は小隊長代理として、小隊を指揮している以上、他の小隊に引けを取りたくないと云う、強い責任感があってのことだった。クワイ河架橋でも向こうが白なら、こっちは黒、それで堂々と鼻をあかしてやろう位の意気込みだったに違いない。そんな時、俘虜の打杭が一日二本とあっては、少々頭が痛くなる問題だった。

 さて左岸の油座隊はどうかと眺めていると、油座隊は油座隊で大変なさわぎである。問題のエンジンが調子悪くて、さっぱり始勤しないのだ。こちらでは俘虜がどうのこうのと云っても、とにかく幾本かの杭を打っていたが、油座隊はいつになっても、さっぱり打杭の音が聞こえて来なかった。油座少尉は首をひねりながら、ワン、ツー、スリーの掛け声を間いていたに違いない。 「ざまあ見ろ!おおかたバンコック辺りの中古エンジンだろう」……とは右岸の雀たちの言だった。中隊長の広岡少尉は、後に建設会社の社長になる程のベテランだが、この時は少々心配にならずにはいられなかったろう。毎日のように双方の現場に激励に来る始末だった。右岸に果ては「鶴田見習士官、油屋隊のエンジンはそろそろ動き始めるぞ!」そして左岸に行っては、「油屋少尉、鶴田隊の俘虜はピッチを上げ始めたぞ!」と気合いをかけて廻った。                      

 そして間もなく、その言葉通りエンジンの修理も終って、快調な音をたてて廻転し始めた。その時吾々は既に十本位は打抗していただろう。エンジンが快調になれば、僅か十本位の差では、たちまち追いつかれてしまうことは明らかだ。「おい見ろよ! 油屋隊のエンジンが動きだしたぞ! ぬかるな、おい皆な 頑張れよ!」けたたましいエンジンの響きと、掛け声がクワイ河にこだまして、現場はようやく架橋現場らしく活気がみなぎってきた。

「難工事」

その頃、ノンブラドック-カンブリ間の路盤構築は、日本、タイ両国間の取り決めで、タイ国政府が工事を担当することになっていて、ようやく作業が開始されていた。その区問の架橋は、日本軍が担当することになっていた。これには鉄九四大隊の一部が当っていた。クワイ河橋梁以西の隣接する地区は第二大隊の担当で、この橋梁の先、数キロにあるチョンカイの岩山では幹部候補生一期先輩の垂水少尉の小隊が切り取り路盤構築に当たっていた。この岩山は全山、石灰石で覆われ、長さ約150米、深さ約十米に及ぶ。作業は爆破作業が主体であるから、泰緬鋏道建築工事の中でも難工事の一つとされていた。

これは爆薬も乏しく削岩機の少ない当時の状況としては今日では想像も及ばない苦闘だった。このチョンカイの岩山は今日でもクワイ橋から遠くに望むことの出来る小山である。垂水少尉は東大の出身で当時鉄道省の幹部候補生ならぬ候補官だった秀才である。後に私と、戦犯容疑者として獄中仲間となるのだが、当時はそんなことは夢にも考えず、ひたすら目前に広がる建設と云う任務に、彼も私も懸命に取り組んでいたのだった。

 

「ボルガマーチ」

 数日が過ぎたある日、その日は金子上等兵が櫓の上で、元気よく号令をかけて打杭していた。一本打杭が終ると、交代の俘虜が椚橋に乗り込んで来る。その間に次の打杭準備が始まった。金子上等兵は、作業が順調に進んでいるのに気をよくしてか、俘虜を相手に、片言の英語で冗談を云っていたが、その内に「ボルガの舟歌」を歌いだした。彼は調子のいい時は、鼻歌を歌い出す呑気な男だった。 「エイコーラ、エイコーラ、も一つ、エイコーラ」金子上等兵はいい気持になって、歌い続けていると手綱を手にして待機していた俘虜達は、微笑しながら彼に拍手を送り口笛を吹き、果ては一人が同調して歌い始めると、全員が歌い出し、ボルガの舟歌の合唱となってしまった。

 次の杭をポンポン船で、川上から曳いて来る間の、しばしの小休止の時間だ。合唱は河岸の俘虜達も交えて、大合唱となるとそれは大きな旋律となった。労務係の三柳伍長はこれを見て、何を思ったかボンと手を叩き、私の所へやって来て、「ボルガの舟歌、このリズムで打抗したらどんなものですか? いや冗談ですがね」「なるほど!」 瞬間、私はこいつはいける、と思った。 俘虜達は音楽好きだ。それに今の環境は音楽に飢えている。気晴らしにもいいだろう。リズムに依って、能率が上がれば我々の思うツボだ。少なくとも、ワン、ツー、スリーよりはましだろう。しかし待てよ! 我々は日本帝国軍人だ。入隊以来歌を歌いながら、作業をしたことなど一度もない。まして此処は戦地だ。そんなことが許されるだろうか。せっかくの彼の提案にも、少なからず躊躇せざるを得なかった。

 対岸の油屋隊では、石油エンジンの調子はますます快調で、今日は朝からどんどん調子を上げていた。当初十本差だったものが四本差位に追いついてきていたのだ。「三柳伍長、治座隊もやり出したな、だいぶ調子を上げて来やがった。」「先刻のボルガの話だが、こいつはきっと行けるぞ。ボルガでどんどん打ちまくるか! ただ中隊長が何と云うかだな!」試しにボルガでやってみるとするか、中隊長への報告は後のことにしよう」

そう腹を決めると、私は全員を集めて主旨を説明し、ボルガの舟歌による打杭を試みることにした。支那事変以来の古参兵は「そんな話はかつて聞いたことがない、前代未聞だ」

 「しかし、それで石油エンジンに差をつけることが出来ればこっちのものだ!」「面白いじゃねえか!」まんざらでもなさそうな顔色である。それで私の腹も決まった。かくして、ボルガの舟歌による打抗が開始されることになった。「金子、ボルガでやれよ、いい声出してな」足もとから声がかかると、金子はすっかりいい気持ちになって「OK、OK、まかしてくれ!」と云った。櫓の上の金子上等兵は我が意を得たりとばかり胸をはって音頭をとるように歌いだした。「エイコーラ、エイコーラ」。俘虜達はあまりの奇抜さに奇声を上げて大喜びだが、モンキーはあがらなかった。冗談だと思ったらしい。P中尉は大声で趣旨を説明すると、「OK ベリーグッド」の連続だ。金子上等兵はそれっと前触れをしてはじめた。エイコーラ、するとどうだろう。モンキーは高く上がってドスーン、ドスーンと杭はそのたびに深く打たれていった。モンキーが上がれば落下の勢いがついて、杭は深く打たれる。そしてまた「エイコーラ」すると彼らが続いて「エイ、ヨ、ホー」ドスン。調子は上々だった。杭の深さを測定している原上等兵は大きな声で報告する。「班長殿、これは大変だ。今までの倍は入ります」音楽は世界の言葉、そして音楽のリズムは彼らの心を捉えて作業は調子よく進んだ。それ以来我々の打杭現場では俄然活気がみなぎり、作業は見る見る能率を上げてきて、平均一日六本位に上がってきた。我々はこのボルガの舟歌をそれ以来ボルガマーチと呼んだ。もちろん行進曲ではないから、マーチと呼ぶのは間違いだが、軍隊らしい呼び名にした迄である。

ボルガマーチは対岸の油屋隊にも聞こえる。何事かと、手を止めてこちらを眺める油屋隊の、俘虜の姿が手にとるように見える。この話は、たちまち俘虜仲間や、日本兵の間でも評判になってしまった。「鶴田隊では、えらことをやり出したな」中にはこんな陰口を叩く者もないではない。「俘虜の機嫌とりか?」

しかし吾々は、そんなことにはおかまいなしだ。「石油エンジンに負けるな!」ドスン!

 「人力打杭のよいことを、実地に示してやるんだ!」

作業場は、左岸と右岸で、大変なせり合いになって来た。油座隊も負けてはいない。朝から整備にかかり、エンジンは凄い音をたてて吾々に追って来た。中隊長の顔にも、やっと笑顔が見られるようになった

「よう頑張っとるな! これでやっと架橋現場らしくなって来たぞ!」こうなるとますく調子がついて来るものだ。打抗は日に7本から8本になり、条件のよい時は日に12本打ったことがある。椚橋は、河の中央に出るにつれて、水深も深くなり流れも急となる。椚橋の舟首には波が砕け、櫓はゆれ始め、作業は当然低下するはずなのに事実は逆に向上していった。ボルガマーチはやがてスコットランド民謡になった,回じ歌だとあきるので、歌は何でもよいことにしたのである。ある兵隊は笑いながらこんなことを言った。

「何でえ!これじゃまるっきり、俺達が英軍にいるみたいだ!」すると別の兵隊がどなり返した。「馬鹿野郎! ぐずぐず云うな、何か何でも油座隊に負けるな、わかったか!」

「イングランド兵とスコットランド兵」

ボルガマーチのお陰で俘虜は定着し、いつも同じメンバーがやって来た。希望者が多いらしいが、一度来た俘虜が他の仲間に譲らなかったのだ。ある日、どう云う間違いかイングランド兵が、半数混じってやって来た。吾々にとっては、イングランド兵は新参者である。作業の手順を説明するのも手間がかかるので、スコットランド兵とイングランド兵を混ぜて、作業につかせることにした。するとスコットランド兵から要来が出た。

 「我々は我々だけの方がよい!」「成程!」云われてみれば私にはうなづける節があった。それはかねてから、こんな話を間いていたからである。彼等は同じ英国兵でありながら、服装一つを例にとっても違うのだ。イングランド兵は、カーキ色の制服でつばのある軍帽だし、スコットランド兵は、スカートにベレー帽、そして気質も青白きインテリと云う感じに対して、一方は素朴で荒削りな感じである。云うならば、都会人と地方人との相違があった。「スコットランド兵は、イングランド兵の将校に敬礼しないですね! 英軍ってのは面白い軍隊だ!」とこんな話も間いたことがあった。この両者が一つの手綱を一緒に引く作業をする訳がないのだ。私は彼の要求に、即座に応じることにした。「OK」、そして各々の二つのグループに分けて交代で作業につくようにした。イングランド兵は、スコットランド兵に負けじと頑張ったが、何分にも、幾日間かの熟練のハンディがあった。スコットランド兵は、打抗時間も早く、手際よく作業をこなして行った。 「三柳伍長、明日からは、全員スコットランド兵にしてくれよ、鉄道隊にはスコットランド兵が向いているようだ」

「良好な生活環境」

クワイ河畔の架橋現場から、そう遠くない我々のターマカムキャンプでは、風向きによって彼等のボルガマーチが聞こえて来ると云う。ガバ(軍隊語で炊事班のこと)長は作業隊に負けじと調理に精を出してくれた。「おい聞こえるだろう、作業隊は頑張っとるぞ、ガバも頑張れ、とびっきり美味しいのを作れ!」カンブリからは、クワイ河で訪れる魚が手に入る。その上バンポン市も近いので、新鮮な野菜や、果物もこと欠くことはなかった。これは大隊本部の主計さんや、中隊給与係の陰の力だった。俘虜収容所の給養はどのようであったかは、知る由もなかったが、カンブリが近いと云う地の利もあったのでそう悪かろう筈はないと思った。タイ人の物売りが来て、あひるの丸焼きや、卵、それにバナナ等も入手出来た。泰緬鉄道唯一の恵まれた状況にあったことは、最近になって発刊された英国の図書にも″乳と蜜の地、タマルカンキャンプ″として紹介されている。タマルカンとは、我々が云うところのターマカムである。架橋現場には、この頃は連日のように中隊長や、大隊長の姿が見えた。ある時はタイ国の高官の見学があり、表敬のラッパが鳴ったことを覚えている。勿論、ボルガマーチについては、何のおしかりもなかった。

 

 戦後、日本に各種の管理システムが導入され、産業に活を入れたが、その内に繰り返し行う単純作業には、作業能率を上げるために、テープでリズミカルな音楽を職場に流す方法がある。このシステムを我々は戦時中に、しかも戦地で創造的に採り入れたことは、私の生涯を通じ想い出のひとつとなった。

「俘虜士官の偵察」

 ある時、私は連絡のため作業中に、中隊指揮班のキャンプに帰ることがあった。船着場まで来ると、渡舟係の東伍長が何やら憤慨しながら、私に訴えるのだ。

 「見習士官殿、この俘虜の少佐は実にずうずうしい奴です。今頃のこのこやって来て、舟を出せと云うんです。冗談じゃねえや、俘虜に命令されて、舟を出すことはないでしょう! この舟は規定以外には、出さないことになっているんですから」

側に中年の少佐の肩章をつけた、英兵の将校が立っていた。彼は私に敬礼するのでもなく、カイゼル髭をなでながらぼさっと立っていた。この野郎。私は一見して不快に思った。元未私は、権威を鼻にかけるタイプの人開には、好感を持てなかったのだ。

 「舟は出さんでよい、この少佐はもう少し持たしておけ」払は東伍長にこう云って、少佐の方をふり向いた。「今すぐ舟を出すことは出来ない、もう十分もすると、払は対岸に行く用事がある。その時に 一緒に乗れ」 こう話すと払は又引き返して、作業場を一巡りし再び渡舟場に戻った。英国の少佐は私を見るなり、敬礼して私と共に舟に乗った。この少佐は、ボルガマーチの作業現場に興味をひかれてやって来たのだろうか? 私は彼をそれまで見たことはなかった。兵隊の話では、たまにそっと来て見ていたことがあると云うことだった。彼は現場で働く仲問達の前に、堂々と姿を現す程部下からの信頼もなく、叉部下を掌握していなかったようだ。私はその時思った。「どこの世界にもあの種の人間がいるものだな。 英国とても同じことだ」と 心配されていた俘虜の規律もよく保たれていた。

 

「監視兵の悩み」

トラブルも起きなかったが、作業現場には監視兵を配置していた。館林二等兵、彼は補充交代兵として私と共に内地から来た兵隊で、輸送間も私の小隊にいた。補充兵として応召したので軍隊生活の経験はない。文字通り星一つの新参兵である。その上彼は小柄で細身、見るからに弱々しい体格で、どうみても軍人とは思えぬ風貌である。加えて気が小さいのだから、小隊でも全く目立たない存在だったので、彼が分隊長から指示される任務は食缶運搬とか材料監視とか、云うならば雑用に類する仕事だった。作業が本格化して来ると、猫の手も借りたい位になって来た。こうなると雑用の類は、信用のおける俘虜にまかせるようになり、彼は作業現場の監視兵に立つことになった。監視兵は、作業場の見晴らしのきく場所に位置して、絶えず作業場や、俘虜の監視に目を光らすのが任務である。時には何か謀みで、作業場に近寄ろうとする現地人にも、注意しなければならない重大な任務である。 しかし現実には俘虜の規律もよく保たれ、トラブルもないのでどちらかと云えば、作業に重点が置かれて、監視兵は形ばかりのものになっていた。ひ弱そうな館林二等兵は反面、実に真面目で、素直な性質だった。彼は雑用から監視兵に廻わると、身に余る重大任務と心得たのだろう、実に忠実に任務を遂行した。定められた服装で防暑帽をかぶり、銃を手にして終日炎天下にさらされながら、起立して監視の任に当っていた。〃 館林二等兵もなかやるな〃 いつの間にかこんな言葉が聞かれるようになったある日、その館林二等兵は帰営後、私にこんなことを告白したことがある。「小隊長殿、私はこの頃夜も寝られない時があるんです」「どうかしたのか」「他の人には云えませんが……小隊長だから云うんです。監規兵って云うのは大役ですね、英国の俘虜は皆大きいでしょう。胸や腕に毛が、生えている。そんな奴が私を見て、馬鹿にして向かって来たら、どうしようかと心配でなりません」 私は瞬間おかしくなったが、真剣な彼の顔を見ると笑う訳にも行かない。

 「館林、心配するな、そんな時は空に向かって銃を射って合図しろ!皆な駆けつけるぞ」「小隊長殿、今のことは皆かに云わんで下さい。笑われるから」「わかった、しっかりやれよ、お前も立派な軍人だからな」それ以来、彼とは何かとよい話相手になったのだが、その時、私はとかく作業に夢中になっている自分か、何か館林に教えられたような気がした。館林の云う通りだ、注意しよう。その夜は、館林のこの言葉が想い出され、ともすれば戦場であることを忘れ、作業に夢中になっている自分を反省し、寝つかれなかった。 作業は、その後も心配されたトラブルもなく順調に進んで行った。杭が打たれると、これを追うように渡辺隊が桁を架けて来る。両岸からは、長い橋が河に突き出るように構築されて、橋らしくなって来た。この頃は油圧隊との差は2、3本柱で、作業量で云えば、僅か半日の差である。この頃は俘虜もすっかり作業に習熟して来て、一日8本は軽くこなしていた。

 

「何で日本は戦争を始めたのか」

作業が軌道に乗ると、私は多少の余裕が出来てきて、P中尉とよく雑談をするようになった。P中尉はある時こんなことを云った。「日本はどうしてこの戦争を始めたのだ」私は八紘一宇と云うことを、いいたかったが私の英語では、適切な言葉がわからなかった。 「私の英語ではこの答えは大変むずかしい……がつまり……アジアのためのアジア、日本はアジアのリーダーになるためだ」「そうすると日本はアジアのブロックを作ろうとしているのか?」 「そうだ、日本をリーダーとしたアジアのブロックだ。英国も世界中に英国のブロックを作ったではないか!」「そうだ、わかった」 現在では、解放と云う都合のよい言葉がある。アジアの民族を植民地から解放して、アジアのためのアジア、東亜共栄圈を作るのだと云う意味のことをいいたかったのだが……不充分ながら私のその言葉でも理解したらしい。彼はうなずきながら、クワイ河を見ていった。

「俘虜の気持ち」

私は彼に質問した。 「君達は、どうしてこの様に日本軍に協力して、よく働くのだ?」彼は多少戸惑ったような顔をして、「俘虜となっても、吾々は軍規を守っている。吾々はこの敗退を早く完成させて、この鉄道に乗って故国に帰るのだ」「ところで、この戦争は英国が勝つと思うか?」 彼は犬真面目で率直に答えた。「勿論勝つ!」私は、自信ありげにさらりと云ってのけた彼を“この野郎! ぬけぬけと抜かしやがって”と私は思ったが、俘虜と喧嘩をしても始まらない。彼は更に続けて云った。 「吾々は祖国に帰ると、英雄として迎えられる。早くスコットランドに帰りたい。」

彼の話では、戦争で俘虜になると云うことは、前線で敵と最後まで戦った証拠だと云うのだ。日本では、生きて虜囚のはずかしめを受けるより、死を選ぶと云うのが普通の考え方だから、俘虜の身を英雄と思うのと、恥辱と思うのとでは、考え方に大きな相違があることがわかった。彼はポケットから1枚の写真をとり出して、

 「これは妹だ、美人だろう」

 「大変美人だ、恋人だろう?」

 「いや妹だ、私の家はウェールスにある。今この妹が一人で、留守番している」

 「妹さんは元気か? 私の妹は病身だ、今東京に家がある」

 「戦争が終ったら、英国で逢いたいものだ」

 「機会があったら東京でも逢いたい」

「蛍の光」

作業交代待ちの俘虜が、うしろでこの話を聞いていたのだろう故人の俘虜が、故郷を想い出したのかスコットランドの民謡を歌い出した。P中尉も共に歌った。その歌は日本で歌われている〃蛍の光〃や、〃峠の我が家〃だった。 とにかく彼等は歌が好きで、折にふれ歌いはじめる。俘虜の楽しみは、歌とかけごと、そしてマンデー(水浴)である。かけごとと云っても大したものではない。今日はスコールがあるかないか、と云う程度の日常周辺に起こることを、何でもかけにしているのだ。これも単調な生活に変化を与える、生恬の知恵だったのだろう, ある日、私はP中尉とちょっとしたことでかけて、私が負け約束通り、コーヒー1缶を彼にやったことがある。

 

「俘虜のレベル」

彼が文科系だと云うので、僅かながら文学の話をしてみたことがある。シェークスピアを持ち出すのも大袈裟だから、かつて学校時代に英語の副読本で敦わった、コナン・ドイルだったかの踊る人形と云う推理小説の話をすると、彼も知っていたが、まわりの俘虜はP中尉の説明にもポカンとした表情でわからなかったようだ。尤も俘虜達の中には、給料を受け取る際に自分の名前も書けない者が、何人かはいると云うことを問いたことがある。そんなものに限って作業はよくやる。にくめない者が多いのはどこの国でも同じでと見える。

「俘虜の水浴」

作業の帰途にはいつもマンデーを許可した。渡舟場の近くに、恰好の淀みがあって、水俗場にはよい所だった。これは当初はなかったのだが、減水と共に岸近くに、中洲が現れて、岸と中洲の間が適当なよどみとなったのだ。キャンプの中で僅かばかりの、水浴をするより自然の大河の流れで水浴するほうがはるかに健康的である。架橋作業に与えられた恩典のようなものでこれを活用することは当然である。監視兵の館林二等兵が緊張する中で彼等は子供のように嬉々として水浴を楽しんだ。水をかけあうもの、泳ぐものなどいろいろだが、作業で日焼けした白人は紅人となり、緑の陰を宿したクワイ河に紅人水浴の光景は、緑と紅の色彩の対比で誠に絵画的であった。

 

「日本への葉書」

私はこの頃内他の留守宅に出した葉書に、こんな文句を書いたことを想い出す。

“拝啓、私もますます元気です。……赤鬼や青鬼が水浴をしている様は正に一幅の名画を見るようです”と。 当時、吾々が出す内地への便りはすべて軍事郵便の葉書で、勿論軍の行動や、機密に関することは、一切書くことは出来ない。従って文面は当然ありきたりの、平凡な内容になる。そこで少しでも変化のある、表現にしたいと頭をかかえて、考えたものがこの葉書だったと思う。赤鬼とは、日焼けした紅毛人、青鬼とは青い目の異国人、共に俘虜を指すのだが、思えば苦心の作だった。

「クワイ河の増水」

 打抗はもう八分通り終ったと云う11月初句、吾々は、計らずも大変なことに見舞われた。減水していたクワイ河は、また増水を姶めたのだ。 雲一つない晴天だと云うのに、水位は音もなく不気味に上がり始めた。「こんな晴天なのに、気持の悪い河だ!」

誰もが水位計を、見つめながら冷然とした。 タイ国では幾年かに一度は、洪水が起きる。その年も9月から10月にかけて、バンコックでは大洪水に見舞われ、市内の道路は水びたしとなり、交通は途絶し、サムロー(人力車)は姿を消して、小舟で道路を往来した。その時、鉄道建設資材の収集にも、大きな被害が出た程である。クワイ河の減水が平年より遅れたのもそのためで、やっと減水していたクワイ何か、また増水を始めたのだ。

「作業中止」

11月6日、いつものように打杭していると中隊指揮班から伝令が飛んできた。クワイ河ハ刻々増水シ、作業ハ危険ナリ、打抗作業ハ速ヤカニ中止シ、資機材ヲ徴収シ、椚橋ハ、左岸二待避セヨ」大隊本部の無線班に、洪水情報が入り、直ちに中隊長命令として、指示されたのである。 上流地方の大雨で、クワイ河は刻々増水し、洪水の恐れがあったのである。我々は直ちに作業を中止し、椚橋は錨を上げて、左岸に待避を始め、杭や角材はロープで結ばれ、器材は撤収することになった。その夜は中隊全員で、橋梁警備に当り、中隊の照明器具は全部動員されて、完成間近いクワイ木橋には、点々と灯がつき、夜空に赫々と浮び上がった。緊張の一夜が明けた翌朝には、増水は、最高潮に達し、水位はもう僅かで桁に達する程に迄上がって来た。上流からは、次々と青葉のついた生木の、大木が流れて来る。チーク材や椰子の木、それに混じってやっかいな鬼竹の大株である。我々はこれ等の流木が杭にかからぬように、払いのけて橋梁を、防衛しなければならない。もし杭にかかると、流木はたちまち横になって橋を塞ぎ、橋はダムのようになって、水圧で押し流されてしまうからだ。 懸命な作業が続けられた。その日の夕刻には、幸い水は減水を始めた。この時、流水とは縦に流れて来るものであることを初めて知った次第である。誠に貴重な経験となった。これは水の抵抗によるものなのだろう、相当大きな大本でも筏のように、狭い経間を通すことが出来た。 幸いこの増水ではことなきを得たが、その日は終日翻弄され、翌日は椚橋の移動や作業準備に結局三日間を空費しこの大切な時期に大きな時間的損害を受けた。                                   

 ところがチヨンカイ山の垂本隊に、それ以上の大きな実害を受けていた。俘虜のキャンプの一部や、仕事場が流され、資材にも大きな彼害があったと云うことだった。正確にはチョンカイはケオノイ河、我々はクワイ河だから水系が異なる。ケオノイ河の方が、増水が甚大だったのだろう。何としてでも、我々はこの時期には予想していなかった洪水と云う大自然の外敵とも、争わなければならなかった。 

「人命救助事件」

打杭作架か再開されて間もなく、我々の現場では、一寸したエピソードが生まれた。それは俘虜が河に落ち、人命救助したのである。その日午前中の作業が終って、椚橋のグループが、足場板伝いに岸に戻る時のことだった。“ドブンー”と音がしたと思ったら、一人の俘虜が足場板から足を滑らせて河の中に落ちてしまった。我々や俘虜の視線が一斉に音のする方に向けられた時、一度沈んだ俘虜が、ぽっかり顔を出して何やら大声で叫んだ……とその時、側にいた福島上等兵は、上着をぬぎ棄てると河中に飛び込んで、俘虜の襟元をつかみ、泳ぎだしたではないか。咄嵯に別の兵隊が、竹の棒を差し出して救い上げることが出来た。ほんの一瞬の出来事で、福島上等兵の機敏な行動で、事なきを得か。後にこの俘虜は泳ぎが出来なかったと知って、私は俘宵が助かりほっとしたものである。もし不幸にして、あの濁流に流されて死亡していたら、作業中に俘虜を死亡せしめたと云う理由で私は責任者として、戦犯の極刑になっていたかもしれない。そのときは我々も俘虜も大笑いで幕となった。

「鉄橋工事」

クワイ河鉄橋の方はどうだったであろうか。前述のようにコンクリート橋脚の構築には井筒工法を採っていた。これにはガットメルドレッジャーという土を掘る機械が必要で、これがタイ国各地では見つからず、その入手に苦労していた。従って作業は河畔で骨材の準備をしたり、土のうを作っていた。河中での作業には着手していなかったので、増水の被害もほとんどなかった。もし早くから、ガットメルを入手して、河中の作業が進んでいたら、大きな被害を受けていたろう。ガットメルが見つからなかったと云うことは、かえって幸いであったとも云える。

 この頃には、カンブリにも鉄九連隊本部や、関係者たちが集結を始めて、町はにぎやかになって来た。吾々にも休日が与えられていたので、カンブリの町にはしばく外出の機会があった。飛行場跡の広場や、カンブリの映画館で、慰問の演芸会が問かれたこともあった。タイ国の若い女性歌手が、日本の歌曲を鮮かな日本語で歌ってくれた。中でも彼女等が歌う“軍国の母”が今も私の印象に残っている。しかし私には、タイ寺で奏でられるタイ音楽の方が、はるかに魅力的で、何かジャワのガメラン音楽を思わせる、このタイ国独特の民族楽器の音が、異国的な情緒を感じさせてくれた。 洪水さわぎの後、水は意外に早く減水した。再びボルガマーチと石油エンジンの競争は続いたが、左岸、右岸の両者が河の中に出て来て、ぶつかり合う程近くに接近して来ると、双方の作業隊が目と鼻の先で、競演するように白熱化して来る。いよいよゴール寸前のラストヘビーというところなのだが、その時、突如として水が入った。中隊長より私の隊に転進命令が下されたのだ。

 

「転進命令」

 “鶴田小隊は、打杭を中止し、速やかに、ターモアンに転進し、指示する橋梁構築に任ずべし”と云うものである。つまりクワイ河木橋の打杭作業は、油屋隊が続行し、私の隊は他の架橋にかかれ、と云うことなのだ。これは打抗現場が重なりあうので、危険であることの外に、もう一つの理由があった。前述のようにノンブラドック−カンブリ間、その間の路盤構築はタイ側の担当だがその区間の架橋は鉄九四大隊である。この間は一見平坦地のように見えるが、ターモアン−カンブリ間は高さ六米以上にも及ぶ盛土個所があり、四大隊はこの箇所に架桟を架けていたので、カンブリに近い架橋が手薄になっていたのだ。我々はこの個所に、15米−20米ほどの橋梁を3橋梁架けることになった。

 

 程なく、器材を満載した我々のトラックはターモアンに向かった。しばしクワイ何ともお別れである。ターモアンは現在カンブリ駅より一つ手前の駅である。我々はターモアン部落から離れた椰子木の中に、キャンプを設営した。これは当時この地には、悪性の病人がいると噂されていたためで、どうも吾々としては気持のよい地ではなかった。キャンプが出来ると早々にここで十一月三日の明治節(現在の文化の日)を迎え、故国日本の方角に向かって遥拝を済ませると一気に架橋にとりかかった。 橋梁3つと云っても小さい橋梁なので、クワイ橋を手がけていた吾々にとっては、物の数ではない。あっと云う間に片付けて、再びターカムキャンプに戻ったのは十二月上旬だった。

「木橋の完成」

私は十二月一日付を以って少尉任官が発令されたが、進級のことなどはとうに忘れていたのである。進級とか任官とかまるで人ごとのようで、新しい軍服も借り物のような気がしてならなかった。申告を済ませるとまた作業衣に着替えて、クワイ河畔に出かけていった。

このころにはクワイ河木橋は桁もかかり、約全長180米の立派な橋が出来上がっていた。残るは両端礎部分の取付路盤や上部建築(レール敷設等)位だった。“橋は出来たぞ、出来上がった”私は目の前に出来上がった橋を見つめながら、無量の感に打たれた。私としては戦地に来て初めての大仕事、そして終生の中で、最大の架橋でもあったのだ。 そこには、この間までの俘虜のボルガマーチも聞えず、石油エンジンの響きもなかった。ただクワイ河の流れが、長い木橋の影を映してゆるやかに流れていた。「早く列車が通るのを見たいものだ」私はC56が列車をひいて、この橋を渡る光景を想像しながら、あかず、木橋を眺めていた。

「戦場に架ける橋とは」

その時、顔見知りの俘虜がやって来た。「橋は出来上がった!」 私は指さしながら話しかけると、「OK、非常に速かった。しかしこの橋は木橋だから駄目だ」 日本軍はこんな橋しか出来ないのか? 洪水ともなれば流されるぞと云わんばかりだった。

この野郎、何抜かすか 直ぐ上流に何か出来るか知らんのかと云いたいところだが、私は口をかたく閉ざした。あえて俘虜に上流に、何か出来るかを説明することもないからだ。この時は未だ、ガットメルも入手されておらず、鉄橋の架橋作業は余り進行していなかった。ガットメルがバンコックで見つかったのは、十二月下旬頃だったのだろう。

彼は、友達だと云う別の俘虜を指さして、「彼はオーストラリアのシドニーで大きな橋を架けた技術者だ。その橋は鉄橋で全長4粁もある、鉄道と自動車が通れる橋だ」「たいしたものだな、何年かかった?」「6年かかった」「ワ。ハ。ハ……」私は大笑いした。彼等は戦場にかける橋の何たるかを知らないのだ。

「試運転」

 クワイ河木橋はかくして、何のトラブルもなく予定通りに昭和17年12月25日に完成した。C56の蒸気機関車による試運転を待つばかりとなった。その頃はノンブラドックーカンブリ間のレールも敷かれ、作業列車がどんどん運行されていたのだが、吾々は試運転も待たずに、山奥の次の任務に向けて転進して行くことになった。 鉄橋架橋の方は、前にも述べた根田氏の話によると、その後コンクリート橋脚はガットメルの入手で迅速に進展し、又バンコクの鍛冶屋で、同じ形式の刃を作らせ、これを中隊で加工して最後には数組のガットメルが作業に使用されたと云うことである。

「鉄橋の完成」

 鉄橋架橋でも、あの映画に出て来るようなトラブルは全然なく、あれは全くの虚構であることは論を待たない。エピソードと云えばこんな話があったと、根田氏は興味ある想い出を語ってくれた。 「あの橋脚の時です。ガットメルでいくら掘ってもコンクリート橋脚が沈下しないんです。土質が粘土質だったので、粘着力が強いのです。いくら荷重をかけても、沈下しないので困りました。すると中隊長(藤田中尉、陸士出)が井筒の下でダイナマイトを爆破させて、その震動で沈下させようと云うのです。半信半疑でやってみると、見事に橋脚は沈下しました。素人程恐ろしいものはないと思いました。今ではそのような工法もありますがね……」とコンクリート橋脚は、翌昭和18年3月上旬には完成し、担当だった鉄九第五中隊は山奥に入ることになり、第四特設工務隊の到着を待たずに、キンサイヨーク地区に転進した。 トラスの桁かけは、四特の手により同年5月15日に完成した。それ以後本線は鉄橋の方に切替えられ、列車は鉄橋を通ることになった。

 クワイ河木橋は、完成してから5ケ月間作業列車を渡し、資器材輸送の任務を全うした。鉄橋完成と同時にその任を終えた。後に翌昭和19年の雨期の洪水で、木橋の一部を流失した。た、四特は、重構桁(ジュウカマエゲタ。組立式のトラスで鉄道独特のもの、兵器に指定されている)で修理したが、たび重なる爆撃でこれも落とされて鉄橋としての生命を絶たれるが、四特は洪水で一部流失した木橋を修理し、列車は木橋を渡ることになった。“打ち止め”の強度が不足で試運転の機関車が河中に転落したという、エピソードはこの時のことらしい。

 

「木橋の貢献」

 昭和二十年に入ると、敵の空襲もますます熾烈となるが、威しい情況下で鉄道隊は、決死の運行を続けた。ビルマから傷ついた日本兵を乗せた列車は、連日このクワイ河木橋を渡った。戦後もしばらくの間はそのまま使用され、泰緬沿線奥地に展問していた日本兵や、現地労務者も列車で皆この木橋を渡り、それぞれの母国に向かったのである。昭和25、6年、タイ国政府により、鉄橋は修理され現在に至っている。この修理作業は日本の建設会杜横河橋梁の手でなされたと聞いている。現在左岸に近い梯型トラスの部分がそれで、当時アーチ型トラス3スパンが、梯型トラス2スパンに改修されている。叉右岸地上部分は、当時荒川建築隊が架けた木橋だったものが、現在はプレート、ガータに改修されている。 思えば、終戦の直前、直後と大事な時に、橋としての使用を全うして、列車を渡しだのは、木橋であったのだ。戦場に架ける橋の真価は木橋にあったわけで、このことは日本の戦史に長く伝えられるであろう。

「誤解を解く」

 「木橋か」とせせら笑っていた俘虜の言、そして近年発刊された図書、“死の鉄道”(クリフォード’キンビグ/服部実訳)には極めて粗雑で原始的な木の橋という意味の酷評を下していることからみて、彼らは戦場にかける橋の何たるかを知らないのであろう。簡単な構造で手近な材料で、早く修理出来る木橋こそ、戦場に架ける橋に適していると云える。泰緬鉄道沿線の各地には、ほぼこれと同じ型式の木橋が数多く架けられた。それらは近年に至る迄使用されていたようだ。当然修理はなされていたとは思うが、その耐久度には我々も驚く程だ。現に103Km、109Km地点には、今も当時の面影を残し、崖に沿って、長い木橋が使用されている。

 さて話は前に戻るが、映画「戦場にかける橋」が如何に真実と違うものであるかは、充分ご理解いただけたことと思う。