泰緬鉄道の史実 鉄道第九連隊資料から

泰緬鉄道建設の悲劇はクワイ河マーチの音楽で有名な映画「戦場に架ける橋」でよく知られていますが、実際はどうだったのでしょうか。日本人はどう理解したらよいのでしょうか。
資料提供者は鉄道建設で鉄道隊大隊長を務めた元陸軍少佐菅野廉一氏です。同氏は戦後犠牲者鎮魂のため何度となく現地を訪ねて戦没者の慰霊を行い、後世に残す貴重な資料作りをされ、戦友と史実の広報に努めています。この方々のご努力のひとつとして、泰緬鉄道開通式で使われた記念機関車(映画と違い橋から落下せず)を泰国から購入し靖国神社に奉納しました。この機関車(C5631)は現在就遊館に飾られているのでご覧下さい。

時 期                     史  実
建設前 当時の世界は第二次世界大戦中で欧州からソ連、アジアにかけて大戦争が起きていました。アジアでは日本は1937年からソ連欧米から大量の軍事支援を受ける蒋介石の攻撃を受けてシナ事変を戦っており、太平洋方面では1941年から日本とアジアを植民地とする米英国オランダの戦いが起きていました。日本は連合軍に比べ兵力的には劣勢でしたが、国民が心をひとつにして戦ったので、はじめは有利に戦況を進めました。この過程で日本は米領フィリピン、英領マレー(シンガポール)、英領ビルマとオランダ領東インド(現インドネシア)の欧米植民地軍を撃破して、多くの捕虜を得ました。 しかし食料も医薬品も乏しい日本軍にとっては捕虜は大変な負担でした。捕虜は日本本土の大本営が直接管理しました。
鉄道の
必要性
ビルマの英国植民地軍を撃破した日本はインド国民軍とともにビルマから英領インドへ向かいました。蒋介石への補給路を断つとともに、インドを英国から解放する戦いでした。しかし強力な連合軍と険しい山脈に阻まれ日本軍とインド軍は食料、武器、弾薬、医薬品の欠乏に苦しみ、沢山の日本軍人やインド軍人が戦死、病死、餓死していました。このため補給は重大な問題となりましたが、タイからビルマへの海上輸送が制海権を失い危険になったので、陸上輸送路として泰緬鉄道を建設することになりました。ビルマの宗主国英国はビルマを植民地として経営するに当たり孤立させるように隣国との鉄道や道路を作らなかったのです。その証拠に戦後せっかく作った泰緬鉄道を撤去しています。
線路区間は東京から名古屋の先の大垣にあたります。地理的には断崖、大密林が続く山岳地帯で日本軍鉄道隊関係者も最初は本当にできるのかと疑問に思うほどの難ルートでした。工期は通常5年はかかるというところ、関係者の必死の努力で1942年7月5日から1943年10月25日までの1年4ヶ月で開通しました。
工事体制 日本側の建設体制は、最盛期一万五千人からなる鉄道隊が当たりました。帝国大学を卒業した一流の土木技師が参加して設計を行いました。捕虜は工事の単純労働に使役されました。したがって技術能力的にも捕虜が橋梁を設計することなどありえませんでした。捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が管理しており、鉄道隊が労働者として借用したのです。捕虜の作業は運搬や掘削など簡単な仕事でした。日本軍の捕虜の管理はソ連に抑留された日本軍人と比べるとはるかに自由でした。
雨季と疫病事故 この大建設作業の途中で不幸にも例年よりも早い雨季が到来しました。そのため山奥の多数の現場が孤立し、食料、医薬品の供給が途絶しました。そこを風土病のコレラ、悪性マラリヤが襲いました。今と違い抗生物質がなかったので日本人、欧米人、現地労務者がバタバタ倒れました。死者は日本軍人一千人、欧米人一万二千人、現地人多数となりました。日本人の死亡率は一割、捕虜の死亡率は二割位で死亡者の比率は1:2です。これは、日本人6万人以上が虐待死した連合軍のソ連の収容所におけるソ連兵と日本人の死亡率比率と比べると、日本軍人の死亡率は比較にならないほど高いことがわかります。捕虜に死者は出ましたが日本軍も多数死亡したので捕虜虐待ということではなかったのです。
完成と慰霊 鉄道橋は六百以上架けられました。これらは急ぐので木橋でした。鉄橋を作る時間はありませんでした。戦場に架ける橋は木製でよかったのです。鉄道は記録的な速度でついに完成し開通し輸送が始まりました。日本軍は現地カンチャナブリとビルマ側のタンビュザヤに日本軍人を除く犠牲者全員の慰霊塔を建立しました。捕虜はもとの収容所に戻されました。
敗戦と報復 戦争が終わると、英軍が鉄道を接収し、建設した日本軍人を戦争犯罪人として逮捕しました。そして捕虜収容所の関係者が多数虐待され処刑されました。鉄道隊の人も処刑されました。報復でした。
慰霊 連合軍は捕虜の墓を探して遺骨を収集し、タイのカンチャナブリおよびビルマのタンビュザヤに大墓地を作りました。日本軍の各地の墓地は撤去させられました。ここが日本人と欧米人の慰霊感覚の違うところです。
現在 ビルマ側は戦後の占領期に英軍が破壊しました。ビルマ独立後も再建されていません。タイ側の鉄道は一部(130Km)が観光や生活に利用されています。この大プロジェクトの資料館「泰緬鉄道センター」が作られて多くの観光客が訪れています。
再会 戦後生き残った日本軍人と捕虜体験者が現地や東京で再会し当時の話をしています。日本側も当時のやむを得ない状況を説明しています。捕虜側でも当時の状況を理解している人もいます。
反日宣伝 沢山の死者が出たので捕虜虐待と宣伝する人がいますが、虐待すれば作業は進まないのでありえません。肉を食べたいという捕虜のために生きた牛を調達して提供したこともありました。ただ日本軍人でさえ食料不足で苦しんでいたので捕虜も苦しんだことはありました。しかし餓死者が続出したシベリヤの日本兵の待遇と比べると雲泥の差です。日本だけを非難するのは不公平です。