ニューヨークの大テロで家族を失った米国人の遺族は、多数の犠牲の出た貿易センタービルの跡地を聖地として保存したいと述べていました。外国人に聖地があるように,日本人にも歴史的な聖地があります。それは伝統、貢献,そして犠牲の聖地です。
伝統の聖地は、日本人の拠所となる歴史的な伝統の地です。
貢献の聖地は生命を捨てて日本という運命共同体を守った同胞を顕彰し感謝するものです。
そして犠牲の聖地は、非業の死を遂げた同胞の鎮魂をするところです。
これらはみな日本人の歴史的聖地ですから,大切に維持し子孫に永久に伝えなければなりません。
私達は一生に一度は各地をお参りしましょう。特に若い人は是非訪れてください。感じるものがあるはずです。


目次:

日本人の聖地 聖地と説明
随筆 心に残る随筆

皇居
東京駅下車徒歩10分。天皇誕生日、元旦などに一般参賀が行われます。大手門から北の丸公園に抜ける道が公開されており、内部を見学することが出来ます。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の
  巌となりて苔のむすまで」
伊勢神宮

2000年以上の歴史をもつわが国のもっとも古い神社。天照大御神の鎮座されるところ。全日本人の産土神社。総理大臣が毎年参拝します。神社には日本の古代からの神秘的な風習が伝えられています。還暦を機会に参拝するなど、日本人なら必ずお参りすべき神社です。写真は伊勢神宮の神域に入る橋です。この鳥居や橋、神殿や内部の建物装具類は古代から戦国時代の一時期を除き20年ごとに更新されてきました。これは世界の不思議です。
知らない人は伊勢神宮をインターネットで調べてください。
http://www.isejingu.or.jp/ 伊勢神宮
靖国神社 地下鉄九段下下車駅前。日本のために勇敢に戦い、犠牲になった英霊(戦死者=日本の神々)を祭っています。日本人の愛国心(連帯心)の源になるもっとも重要な施設です。

「たらちねの父母迎えむ靖国に、明日はゆくなり南溟の空」福山正通中尉(24歳) フィリピン特攻戦死
最近参拝する若い日本人が増えています。
「日本の誇りを知るや若者は、祖父の手を引き社殿に向かう」

神社を維持する会員を募集しています。ぜひ加入してください。     http://www.yasukuni.or.jp/ 靖国神社
同上 神社に付設されている遊就館では当時の歴史事件の解説と明治以来の戦争の遺品や記念品を展示しています。特別攻撃隊の若き隊員の遺書は私達に大きな感動を与えます。 零式戦闘機も復元展示されています。是非拝観してください。
遊就館友の会の会員を募集しています。25歳以下の方です。年間一千円です。ぜひ加入してください。     靖国神社
三笠記念艦 横須賀駅下車徒歩10分。日露戦争における日本海海戦の連合艦隊旗艦。東郷平八郎が指揮し、世界史に残る大勝利をおさめました。この結果、わが国はロシアの南下を食い止め,自由と独立を守ることができました。

横須賀市ホームページ
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/mikasa/
三笠保存会公式ページ:http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
三笠保存会 保存と継承のため会員を募集しています。 
特別攻撃隊
顕彰慰霊記念施設

(鹿児島知覧町)
鹿児島県 知覧町の基地跡にある飛行士銅像。大東亜戦争末期九州のいくつかの航空基地から沖縄救援のため多くの飛行士が出撃し、爆弾による敵艦への体当たり攻撃を敢行し散華されました。この史実には誰もが心からの尊敬と感謝の涙を禁じ得ません。知覧は鹿児島空港からリムジンバスで1時間ほどの美しい町です。多くの日本人が特攻隊勇士の顕彰と感謝に訪れています。
知覧特攻記念館:http://www.town.chiran.kagoshima.jp/touristinfo/heiwakaikan/
知覧

他に鹿児島鹿屋市には、鹿屋航空基地特攻資料館および特攻隊戦没者慰霊塔があります。
http://www.synapse.ne.jp/~msdf-ks/鹿屋
同上  知覧の記念館内には特攻で亡くなった多くの青年の御写真、辞世、遺言が展示されています。その比類無き勇気と不滅の貢献は、参観する全ての日本人に深い尊敬、感謝、同じ日本民族としての誇り、そして心からの顕彰の念を湧きあがらせます。
「死するとも、なほ死するとも我が魂よ、永久(とわ)にとどまり御国(みくに)守らせ」(自分が死んでも我が魂よ、永久にどどまり日本の国を守ってくれ)桜花特別攻撃隊 緒方 襄 海軍中尉 24歳(九州南方海上にて戦死) 辞世

来館者感想:(「特攻のレクイエム」工藤雪枝著から」)
「本当に来て良かった」、「涙が溢れて止まらない」、「同じ世代の自分が情けない」、「自分を見つめ直すことを痛感」、「カミカゼと冗談でいう愚かさ、恐ろしさを知った」、「自分の生命よりも大切なものがあることを教えてくれた」 他
 特別攻撃隊
顕彰慰霊碑

(東京世田谷観音)
  大東亜戦争当初からの生命を捨てて戦った六千名に上る特別攻撃隊の勇士を顕彰するもの。日本は最後まで戦ったため,本土を分割占領されないですみました。これは英霊(戦死者)の大きな功績です。
お参りし、感謝の気持ちをささげ、業績を顕彰しましょう。

これらの顕彰施設は本来公的なものなので政府が建設し永久に守るべきです。
沖縄戦跡
全国戦没者
顕彰慰霊碑

(沖縄平和公園)
  沖縄で国土防衛のため戦死した20万人の軍人、県民、学徒の英雄的行為に深く感謝し、顕彰し慰霊するものです。
この時戦艦大和や多数の特攻機が沖縄の守備軍、県民の救援に向かい多くの軍人が犠牲になりました。
沖縄では特攻機が来援すると敵の激しい攻撃が一時止むので、守備軍や住民はその間にわずかでも移動することができ大変感謝されたと言います。
松永篤雄飛行兵曹 18歳 沖縄特攻 戦死 辞世
「悠久の大義に生きん若桜、只勇み征く、沖縄の空」(悠久の大義=日本の独立維持)
沖縄戦跡
顕彰と鎮魂
海軍司令部跡
入口
1945年6月、那覇市近郊の高台で海軍の大田実少将が率いる海軍の守備軍が全滅しました。海軍の壕は地下トンネルになっており、参観できます。大田少将は最後にあたり、沖縄県民の勇気、貢献、犠牲をたたえ、「沖縄県民は全てを犠牲にして、最後まで日本防衛のために戦った。どうか沖縄県民に後世格別のご配慮をしていただきたい」と東京に打電して自決しました。辞世は「身はたとへ、沖縄の辺に朽つるとも、守り遂ぐべし大和島根は」(自分はこの沖縄の野戦で死ぬことになっても、日本の国を必ず守り遂げよう」
沖縄戦跡
顕彰と鎮魂
最後の地

 南部摩文仁海岸
1945年6月島の南端の身を隠す場所も無い摩文仁の平野に追い詰められた日本守備軍は武器弾薬も尽き、全滅し司令官は自決しました。
牛島 満 司令官 陸軍中将 57歳 自決 辞世
「秋を待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」(今沖縄防衛戦で倒れて行く同胞よ、あなた達は春に草が萌えるように、日本が復興したときに必ず日本人として再び生まれ変り、蘇ることであろう)
皇国(みくに)=日本、青草=日本国民(軍人,県民)の例え
広島、長崎
原爆
犠牲者慰霊碑

写真添付予定



大東亜戦争末期の核兵器による無差別爆撃で亡くなった多くの犠牲者を慰霊します。
東京大空襲犠牲者
慰霊碑
両国駅下車10分位、江戸博物館裏の横綱町公園。昭和20年3月10日の無差別爆撃で亡くなった約9万人の犠牲者を公園内の東京都慰霊堂にお祭りしてあります。ここには関東大震災の犠牲者(5.8万人)も祭ってあります。
境内で遊ぶ子供達は日本人という目から見れば、亡くなった多くの犠牲者の生まれ変わりです。
「境内に遊ぶ子等の声聞けば、滅びし人の御魂ぞ思はる」

慰霊堂に罹災写真を展示していますが、別に記念館を作り展示した方がよいと思います。慰霊堂内はもっと明るくした方がよいでしょう。(平成14年5月現在)
海外の聖地



日露戦争・旅順要塞
攻防の激戦地
203高地
(現中華人民共和国)

19世紀ロシア帝国は清朝の衰退に乗じて満州に侵入、旅順に重砲800門という近代的大要塞を建設。さらに南下して朝鮮を併合する動向。1903年ロシア軍満州に居座り、朝鮮竜岩浦に海軍基地の建設と対日攻撃準備開始。朝鮮政府無力。日本危機を感じ抗議するもロシア無視。1904年日本国交断絶を通知。ロシア皇帝対日宣戦布告。日本商船ロシア軍艦に撃沈さる。満州の日本軍全滅の危機。旅順港のロシア大艦隊の脅威を抑えるべく、決死の湾口封鎖を図るも効果上がらず。広瀬中佐戦死。乃木将軍旅順巨大要塞の攻撃開始。決死隊犠牲者続出するも効果上がらず。しかし12月6日、ついに旅順港をのぞむ203高地を占領。28サンチ大型砲により湾内砲撃開始。ロシアの全戦艦、軍艦を撃沈。日本国内国民提灯行列により奉祝。1905年1月1日旅順ロシア軍降伏。同3月奉天で日本陸軍、ロシア軍50万を撃破。5月27日、帝国海軍は欧州から回航したバルチック大艦隊38隻を対馬沖で撃沈、全滅させ世界史に残る大勝利。9月5日、日露講和条約成立。日本、清朝から南満州の支配権を獲得。戦後多くの犠牲を払った203高地の名称を璽霊山と命名。慰霊塔を建設。今日に残る。日本陸軍中尉桜井忠温は旅順攻撃で負傷、後に世界的名著「肉弾」を著し、日本人の比類なき愛国心と団結、そして勇気を世界に伝えた。

随筆から

平成12年 五十年ぶり義姉とうれしい再会

五十年ぶり義姉とうれしい再会   栃木県  A さん(73歳)  サンケイ新聞投稿

神雷特別攻撃隊の兄が25歳で昭和20年に戦死してから55年。その年に産声を上げた姪も二人の母となり、その長女は嫁いでいる。義姉は小学校へあがる娘を父母に預け、泣く泣く他所へ嫁ぎ80歳になろうとしている。先日姉が身体の調子を悪くして入院したと聞いた。たとえ他所に嫁いだとしても、遠い昔姉になってくれた人。兄のことが思い出されて、見舞いに行った。50年ぶりに私を見る姉の目がみるみる涙でいっぱいになり、黙って手を取り合って泣いた。すっかり白い髪でも背はぴんとして若々しくきれいな姉だった。何回か兄の墓に行ったとか、中学校へ娘に会いに行ったことなど、初めて聞く話ばかりで驚いた。私も兄の村葬のとき、お墓の帰りに泣き出した姪に、姉さんも泣きながらオッパイを飲ませていた姿は今でも目に焼きついているなどと、いろいろ思い出しながら話すことが出来た。姉も喜んでくれたので私の気持ちも軽くなり、兄も幸せだったのだと思うことができて本当にうれしかった。