大東亜戦争60年

目次:

1. まとめ
1-1 評価:見直し=大東亜戦争はソ連の策謀、米中は手先
1-2 意義:日本復活の自覚=戦前以上の大国日本
1-3 私たちの行動:何をなすべきか=民族の団結、理解、行動

2.当時の国際情勢:独ソ対立の欧州戦局が日本を動かした。

3. 戦争の経過
3-1全体:
3-2支那事変:ソ連に降伏した蒋介石の日本攻撃
3-3太平洋戦争:ソ連のスパイがハルノート原案を作成
3-4日ソ戦争:ソ連の正体暴露

4.敗戦と占領政策その後
4-1.日本滅亡方針=米国によるソ連対日政策代行の愚
4-2.東京裁判=中世魔女裁判の再現
4-3.赤狩りと米国の正常化=ソ連スパイの摘発と追放
4-4.米国の日本利用方針と日本の独立=独立したが課題を残す

5.日本の復興

1.まとめ:

1:まとめ
1-1評価:見直し
大東亜戦争は1945年以来60年にわたり、米占領軍とソ連の共産主義により日本の侵略戦争として決めつけられ、左翼政党、教育現場やマスコミが国民に日本有罪論と贖罪意識を教えこんできました。しかし日本を帝国主義、軍国主義と断罪してきたソ連が1991年に崩壊すると、多数の秘密文書が公開され、ソ連の犯罪性が明らかになりました。日本が攻撃したというノモンハン事件は実はソ連が意図的に紛争を起こしていました。そしてソ連は中立条約を破り1945年に日本を奇襲攻撃した事実を隠していました。また米国はソ連に騙されていたことに気がつき1950年には政府から共産主義者を追放して正常化しました。そして占領方針を日本を破壊から再建に反日から親日へ180度変えました。そこで日本人は明らかになった史実と戦後の国際情況の変化を基礎に大東亜戦争の理解と評価を見直す必要が出てきました。その結論は大東亜戦争はソ連がナチスドイツとの二正面作戦をさけるため、シナ軍閥、ルーズベルト政権を騙して日本を攻撃させた戦争だったということでした。最後にはソ連が正体をあらわし日本を攻撃しました。したがって日本の自衛戦争であることが明らかとなりました。東京裁判は中世の魔女裁判と同じでソ連を含む裁判官(注:インド人パール判事を除く)こそが真の戦争犯罪人であったことがわかり、拷問による審問が行われたので裁判が成立せず無効としてよいのです。米軍幹部は既に東郷英機元首相ら東京裁判の殉難者を祭る靖国神社に参拝しています。またブッシュ大統領も靖国神社への参拝を希望しました。これは米国が大東亜戦争で対ソ防共の前衛であった日本を滅ぼしたルーベルト政権の誤りを非公式に日本に陳謝したものと理解できます。

1-2.意義:日本復活の自覚:
1) 敗戦を引っくり返した大繁栄:
大東亜戦争の敗戦で日本は明治以来の多くの努力により築いた国内産業設備、獲得した海外領土を失いました。しかし負けたとはいえ未曾有の大戦争を戦い抜いた団結、気力、規律、技術力により、日本は戦後の経済産業活動で大発展し、今や戦前には及びもつかなかった世界第二位の経済力を誇っています。日本を攻撃した国家は米国を除き皆日本のはるか下位になりました。最近発展している中共でさえ1/6に過ぎません。国民一人あたりにしたら、1/60となります。これは大東亜戦争の敗戦が敗北ではなくなったことを示しています。民族の歴史には多くの事件があります。重要なのは敗戦しても復活することです。今日本は立派に復活しました。

2) 占領政策の是正:
しかし1952年独立したのに政府やマスコミが反日的な占領政策を墨守してきたため、社会に危機が訪れています。中共の首相は日本はこのままだと2020年までに崩壊すると予言しています。それは日本人が主権を失い、外国が日本を支配するという意味です。私たちは何としても外国支配を防ぎ、日本が破滅しないようにように連帯して努力しなければなりません。

3) 先人の偉大さに学ぶ
大東亜戦争の戦記を読めば、いかに先人が絶望的な情況でも決死の努力をし、責任を果たしたことが分かります。同じ偉大な日本民族の系譜に従うものとして、我々も国家民族の危機を回避するため一致協力して日本の正常化に取り組まなければなりません。

1-3.  私たちは何をなすべきか。
1) まず民族の団結です。その具体的な行動として国旗掲揚があります。個人で出きる連帯心(=愛国心)の表明です。
2) 国民行事に参加しましょう:祝日を祝い、皇居参賀、靖国神社,護国神社の参拝をお願いします。
3) 子供を啓蒙しましょう:行事参加はご子息、お孫さんを連れてお願いします。三笠記念艦の参観は子供に勇気を与えます。
4) 日本の聖地を巡礼しましょう:日本民族の聖地沖縄などの戦跡を巡礼しましょう。往時をしのび。先人の元気をもらいましょう。
5) 愛国団体に加入しましょう:日本会議、北朝鮮拉致救出組織などの団体に入り活動を支援しましょう。
6) 愛国歌を歌いましょう:紀元二千六百年、愛国行進曲は素晴らしい名曲です。
7) 正しい知識を増やしましょう:歴史本、戦記を読んでください。日本は今と比べると貧しい国でしたが、
   国民の団結心は強く、世界一の道徳国家を作っていました。当時を知っている高齢者は、
   「落ち着いた安心できる社会だった」と懐かしんでいます。これは当時の文学作品を見ればよく分かります。
l戦争中の生活統制はどこの国でも同じです。占領軍の日本の戦前を悪と見る反日宣伝を断固拒否しましょう。

2.当時の国際情勢:

1930年代の海外情勢:
欧州ではドイツでナチスが政権を取り、インフレ抑制、公共事業の拡大で崩壊したドイツ経済を復興させ、ヒットラーは第一次大戦の敗戦で苦しんだドイツ民族の救世主とみなされていました。
ソ連ではスターリンが共産党の独裁者として秘密主義の残酷な統治を行っていました。農地没収による7百万の餓死者、2千万の死者を出した強制収容所の奴隷労働、相互監視など地獄の世界を作り出しました。英国のジョージオウエルが「動物農場」、「1984年」に描いた恐怖の世界です。

しかし共産主義に騙された人も多く、日本からはソ連に亡命するものもいました。しかし待っていたのは拷問と処刑でした。共産主義者の杉本良吉と樺太から越境した女優岡田嘉子は有名です。杉本はすぐに拷問されスパイとして処刑されましが,岡田は生き延びてソ連崩壊後来日しました。日本共産党員の寺島儀蔵はその二年前にソ連に亡命しましたが、拷問を受け当初死刑、そして懲役25年刑を受けました。かれは地獄の強制収容所で幸運にも生き延び,「長い旅の記録」(中公文庫)を残しました。彼は共産主義の恐ろしさを思い知りこう書いています。
「(男,女,子供の拷問の悲鳴を聞き)プロレタリア独裁政治の恐怖を目の当たりに見た。・・・われわれは勤労民衆がより幸福になるように闘争してきた。しかしそれは今思えばユートピア(無い国の意味)であった。・・・私はこんな制度が日本国民に強制されることには断然反対です。日本にもこんな恐ろしい社会を作ろうと努力していた自分を恥じます。日本国民の前にお詫びして死んで行きます。・・・(そして日本人として誇りを持って死のうと覚悟する)」。

米国ではルーズベルトが大統領となりニューディール政策で失業者を減らし大きな人気を獲得しました。
支那は清朝が1912年に滅亡すると、中央政府が消滅し、軍閥(私兵集団)が割拠する戦国時代に入りました。日本は1900年以来、清朝との義和団議定書により、30年以上にわたり米英仏伊とともに北京,天津回廊地帯に国民保護のため小規模の軍隊を駐屯させていました。支那人も安全が守られたので感謝していました。満州は清朝を作った満州人の土地です。元における蒙古とおなじで、支邦の王朝が支配したことはありません。清朝滅亡で馬賊上がりの張作霖軍閥と日本の南満州守備軍だけが残りました。このため満州は馬賊が跳梁し、無警察状態となりました。こうした情況で張作霖軍閥が日本の権益を侵害してきたので、日本はこれを倒し滅亡した清朝皇帝を頂き、1932年満州国を建設しました。これが満州事変です。満州は日本の統治により治安が改善され産業が大発展し、支那本土から支那人が大量に流入しました。
欧州では1930年代後半になるとヒットラーが周辺地域を併合し、全域を征服しました。ヒットラーはもともと共産主義をユダヤ人(マルクス)の作った悪魔の思想、運動として敵視していました。このためスターリンはドイツへの警戒心を高め主要な軍需兵器工場をウラル山脈の東に移設するなど対独戦争に備え始めました。ソ連のスターリンは1921年のドイツの共産革命暴動失敗で欧州工作を中止し、アジア工作を開始しました。そして各国に共産党組織をつくり、さらに各国政府にスパイを入りこませて情報を盗み、政策をソ連に有利に変えさせる謀略工作に力を注ぎました。日本にもゾルゲをスパイとして派遣し、尾崎秀実を利用して近衛内閣の秘密情報を盗みだしソ連に報告させていました。彼の最大の成果は日本の南進方針を盗み出しモスクワに報告したことです。


3.戦争の経過:

近代戦の原則: 近代戦は兵員、武器弾薬,食料などの膨大な補給戦です。このため軍事的な事件は必ずその前に攻撃側から大量の準備が行われます。また軍隊は命令で行動しますから、偶発や衝突による戦争の開戦は有りえないのです。1937年の支那事変も盧溝橋事件から始まったのではありません。その前に蒋介石の何ヶ月にもわたる対日戦の準備があったのです。ソ連の張鼓峰事件、ノモンハン事件も同様にソ連の入念な事前準備があったのです。偶発という表現は攻撃を仕掛けた側が責任をごまかすために使うので騙されないようにしなければなりません。

3-1.全体:大東亜戦争は時系列的に3つの戦争を包含しています。それは支那事変(1937)、太平洋戦争(1941)、そして日ソ戦争(1945)です。これらの共通項はソ連です。大東亜戦争は今から見るとソ連が、ナチスドイツとの二正面作戦をさけるため、日本軍を南下させるべくシナ軍閥、ルーズベルト政権を騙して日本を攻撃させた戦争と結論付けることが出きます。思惑通り日本軍は南下し、ソ連国境はガラ空きとなりスターリンの陰謀どおりとなったのです。

3-2.日支事変:
ソ連は共産党を攻撃していた国民党軍閥の蒋介石を利用するため,満州軍閥の張学良を使って、1936.12西安で蒋介石を逮捕して武力で降伏させました。そして蒋介石には共産党攻撃を止めることと日本攻撃を約束させ、その代わりソ連の軍事支援を約束したと思われます。ソ連が中国共産党の毛沢東ではなく、蒋介石を使おうとしたのは、当時蒋介石の方が内外の知名度が高く、軍事力が強かったからです。日本は1900年の義和団事件で米英仏伊とともに居留民保護のため国際駐屯軍を置いていました。また満州を独立させた後、侵入する軍閥軍を万里の長城の内側に追い返していました。しかし蒋介石の国民党とは戦闘状態にはありませんでした。こうした状況で蒋介石は半年準備して1937.7の盧溝橋事件から矢継ぎ早に対日攻撃を始めました。支那側の対日攻撃の記録を見てみましょう。
7月7日:19:30盧溝橋で義和団議定書により35年間駐屯していた国際駐屯日本軍に度重なる攻撃開始。
7月14日:天津駐屯騎兵隊近藤二等兵虐殺さる。
7月20日:宛平県城の中国軍が駐屯日本軍を一斉射撃攻撃。
7月25日:廊坊事件 駐屯日本軍の通信線を破壊。修理工兵を攻撃。
7月26日:広安門事件 通過する駐屯日本軍に機銃掃射攻撃
7月29日:中国軍による通州日本人大虐殺
7月29日:中国軍、天津日本人居留地を攻撃。駐屯日本軍の反撃で予防。
8月 9日:上海で中国軍による大山中尉虐殺事件発生。
8月13日:中国軍重砲で上海日本人居留地を砲撃。
8月14日:上海を爆撃。日本機を偽装したが爆弾が伊太利製と分かり失敗。支那人外国人多数が死亡。米人で後のライシャワー大使の兄死亡。
8月15日:蒋介石対日戦大本営開設。(日本は11月) 中国軍40万が上海日本人居留地を攻撃開始。
これを見れば戦争を始めたのがどちらかは明らかです。
日本は海軍陸戦隊4千人が英雄的な戦闘で支那軍の攻撃を防ぎ、本国からの救援まで上海を支えました。
ソ連が支那事変を主導した証拠としてソ連は上海事変が起きると即座に対独戦に備えている重大な時期に、3億ドルという天文学的な巨費を支那軍閥の蒋介石に供与し、最終的に軍用機一千機や軍人を4千名も送っています。1937.12に陥落した南京の空港に焼け焦げた多数のソ連戦闘機がありました。そして南京を定期的に攻撃してくる中国軍機を撃墜すると飛行機はソ連製で操縦士もソ連人であることに驚いたという記録があります。支那事変はその最初の段階からソ連が参画していたのです。左翼の歴史ではこの史実を隠蔽してきました。日本に戦争の責任をかぶせるのに都合が悪いからでしょう。
       
        昭和史研究所会報 平成12年6月10日 号 抜粋。 
対談者: 中村:中村粲代表 (独協大学教授)、田形竹尾氏(陸軍飛行第八大隊第一中隊 陸軍軍曹(当時))
情況:田形氏は昭和13年(1938)1月23日に南京に到着。市内平穏。日本の占領は1937.12.13。虐殺痕跡など全くなしという。「虐殺」が反日デマと分かる。

田形:(1937.12.13)南京が陥落してから支那側が1ヶ月に10回位、南京を爆撃に来ました。そのうち2割くらいを
    迎撃して撃墜しました。彼らが落とす爆弾で支那人がやられたわけです。
中村:(南京の)大校飛行場に支那以外の第三国の軍用機はありましたか?
田形:ソ連の爆撃機と戦闘機の壊れたのが十機くらいありました。海軍の渡洋爆撃(1937.8)で破壊されたソ連の軍用機が30機位ありました。パイロットは3機に1機位はソ連人でした。(ソ連の蒋介石への軍事援助は戦闘機爆撃機1千機、操縦士など4千人に上る。戦死者200名以上という)
中村:それはどうしてわかるんですか?
田形:撃墜した飛行機を調べて分かったのです。「何だ、これは露助じゃないか。俺たちはどこの国と戦って
    いるんだ」と皆で言ったものです。
(解説:1937年7月に盧溝橋事件、8月に上海攻撃が発生したが、その時すでにソ連の軍用機が多数中国軍に配備されていたということは、ソ連の対日戦が数ヶ月も前に準備されていたということを示す。それは1936.12の西安事件であろう。日本がソ連の陰謀を見抜けなかったことは残念である。日本軍機とソ連製機の性能については、1940年9月に日本の零式戦闘機13機がはじめて27機のソ連機(ソ連製イ-16、I-152)と空戦、無傷で全機撃墜したことが世界空戦史で有名)
日本は南京を征服後蒋介石に講和を提案しますが、西安事件(1936.12)以来ソ連が蒋介石を実質的に支配していたので、講和を拒否し戦争は続きました。そこで汪兆銘を首班とする政府を南京に発足させ、支那人が日本の勢力範囲を統治をしました。日本軍はきわめて強く、1945年に米国に降伏するまで10倍以上の中国軍を相手に勝ち、広大な支那本土の南部分を支配しました。しかし支那での日本人の戦死者は52万人に上ります。日本各地の墓地を訪ねると若く戦死された方々の墓銘碑が見られます。勇敢に義務を果たした先人の功績を称え、お参りしましょう。

3-3.太平洋戦争:
米国ルーズベルト政権は日本の真珠湾攻撃前から政府内部のソ連スパイに騙され蒋介石に大軍事援助を行っていました。また蒋介石から賄賂を受け取っていた可能性もあります。外国ではこうしたことは驚くことではありません。1941年には支邦のビルマ国境地帯に戦闘機100機以上、操縦士、整備士250名以上に上る大規模な米空軍を義勇軍(フライングタイガー)に偽装して送り、日本軍を攻撃していました。ですから1941年12月の真珠湾攻撃は戦術的に奇襲であっても先に攻撃していたのは米国だったのです。太平洋の戦争では日本は全力で戦い東南アジアから南太平洋を支配しました。しかし,次第に劣勢となり、最後は原爆により30万の非戦闘員が大量に焼き殺されたため降伏しました。この過程で日本はアジアから欧米植民地宗主国を追い出し、各国の青年を組織して教育を施しました。このため植民地の国々は日本が敗北後舞い戻ってきた宗主国と戦い独立を果たしました。これがインドネシアやビルマ、マレーシアなどの人々が日本に感謝している理由です。
米国はルーズベルト大統領が夫婦ともに共産主義者に取りこまれていたので共産党の危険性をしらず、油断していました。この結果米国社会に共産党がはびこり、映画界では多くの監督や俳優が共産党員になりました。あの名画「エデンの東」を作ったエリア・カザン監督も共産党員でした。さらにルーズベルト政府の内部、上層部にはソ連スパイが入りこみました。もとKGBのスパイ、ペトロフが1995年モスクワで発表した随想によれば、日本を開戦に追い詰めた米国のハルノートはソ連の原案で作られたとのことです。ソ連は米財務省次官ホワイトをスパイにしていました。彼は上司の財務長官の信頼を得ていましたが、財務長官は大統領の個人的な友人で、国務省の外交政策にまで影響力を持っていました。そこでソ連の対日政策が米政府のハル長官によって実行されたのです。日本は戦前日米交渉を成功させようと必死の努力をしましたが,ソ連スパイが米政府中枢に入っていたので邪魔され成功しませんでした。
ルーズベルトが死亡し、戦後になるとホワイト他多数の政府高官が査問され政府は粛正されました。これを赤狩り(1950)といいますが、1991年ソ連が崩壊すると赤狩りの正しさが証明されました。米国の最高機密はソ連に流れ、ソ連の原爆は米国の原爆の完全なコピーでした。

3-4.日ソ戦争:
ソ連は1936年の西安事件の黒幕であり、1937年の支那事変には蒋介石に莫大な軍事援助を行い、義勇兵を偽装したソ連軍は対日戦で200名以上の戦死者を出していました。また1938年の張鼓峰事件、1939年のノモンハン事件などで日本を攻撃しました。そして1945年8月支那事変と太平洋戦争で疲弊した日本が米国との敗戦交渉を受諾しようとしていたところをソ連は日ソ中立条約を破って襲いました。それが日ソ戦争です。放置すれば北海道を占領する予定でした。しかし騙されていた米国も危険を感じこれを阻止しました。ソ連軍は満州や樺太で日本人婦女子一般市民を襲撃し多くの方が殺されました。日本の満州に置いた軍隊(関東軍=支那の山海関の東部という意味))は南方に送られており軍事力は低下しており、欧州から送りこまれたソ連軍には効果的な抵抗はできませんでした。それでも日本軍は同胞日本人の退避を助けるため多くの軍人が戦死されました。樺太からの帰還船小笠原丸や泰東丸がソ連潜水艦により北海道沿岸で撃沈された悲劇は有名です。この潜水艦は後樺太の大泊港に接近して日本海軍の機雷に触れて轟沈しました。

3-5.まとめ:
日本は支那事変では終始優勢でしたが、太平洋戦争では米国の物量に負け最後は原爆攻撃をうけて敗戦しました。日ソ戦争は、終戦を決めた日本をソ連が中立条約を破って侵犯し、日本人を殺し、日本の領土を奪ったものです。そして1991年ソ連が崩壊後もロシアは樺太南部千島など日本の領土を占拠したままでいます。
したがって大東亜戦争では米、中はソ連の代理として対日戦争をさせられということなのです。だから日本が苦心した日米,日中の講和交渉は鍵をソ連が握っていたので成功するわけはなかったのです。この戦争で利益を上げたのはソ連と共産国家でした。米国は戦争に勝っても、何も得るものがなくソ連への巨額の軍事援助は踏み倒されました。、蒋介石はソ連に支援された共産党に支那全土を奪われ、台湾に逃亡する破目となりました。この後米国は共産主義との戦争の最前線に立ち、ソ連が糸を引く朝鮮戦争、ベトナム戦争で莫大な犠牲を出すことになります。
米国の占領軍総司令官マッカーサーは戦後防共の防波堤であった日本を滅ぼした太平洋戦争を「米国太平洋政策100年の犯した最大の過ち」と反省しています。

4.敗戦と占領政策その後

4-1.日本滅亡方針:
日本の敗戦時には多くの痛ましい事件が起きました。阿南陸軍大臣は敗戦の責任を負って自決しました。このほかにも多くの軍人が自決しました。日本は外国の謀略により滅ぼされたのですが、日本側では戦った方々がそれぞれに責任を取ったのです。外国にはない武人としての立派な行為です。1945年日本がポツダム宣言を受諾すると米国を主力とする連合軍が日本を占領しました。その最高司令官が米国のマッカーサー元帥でした。米国はソ連に騙されたルーズベルト大統領が1945年4月に死亡していましたが、米国の対日政策はまだソ連の影響下にありました。そこで占領軍は日本の徹底的破壊を始めました。国防、治安、教育文化、社会、経済の破壊です。
国防では軍隊を廃止し自衛力を無くしました。治安では国家警察を解体し地方自治体の自警団程度の警察力に解体しました。このため暴力団が社会を支配し今日に続いています。教育では教育制度を解体し、文字を変更しました。これは若い人に戦前の書物を読めないようにするためでした。文化の断絶を狙ったのです。これは革命後の政権が行う常套手法で狙いどおりとなりました。社会では二千年以上の歴史を持つ家長制度、家制度、相続制度を破壊し、日本の社会を混乱させることにしました。その結果が今日の大混乱です。
そして、有能な人材を公職追放として日本を徹底的に破壊しました。文化遺産でも歌舞伎を禁止、剣道や武道を禁止、歴史教科書には
墨をぬらせました。こうした占領軍の政策に占領下の日本政府は何一つ抵抗できませんでした。過剰人口を抱えた日本は、1945年8月に降伏しましたが、翌年までに数百万の餓死者が予想されていました。事実配給制度にしたがった良心的な裁判官は餓死しました。
経済では、対日賠償委員会は日本が二度と一級の工業力を持ち得ないようにすることをねらいポーリー提案が作られました。これは日本の国防産業、鉄鋼産業は全て破壊するもので、日本を今後50年はルーマニア程度の途上国に変え、二度と立ちあがれないようにする事を目指していました。またその担当者のオーエン・ラテイモアはソ連に同調した左翼で昭和天皇と皇室家族を中国国民党に渡して監禁することまで考えていました。しかしソ連の危険性に気づき出したこともあり、経済安全保障政策局の局長で著名な経済学者のガルブレイスは日本の惨状をみてポーリー提案を修正しました。そして、占領軍総司令官のマッカーサーが実行を渋っているうちにポーリー提案は忘れられてしまったのです。

4-2.東京裁判
こうした敵の占領と日本破壊方針の中で東京裁判が行われました。これは戦勝国が戦争中に一方的に日本を断罪し、指導者層を処刑したものです。裁判官の中にはあの大東亜戦争を仕掛けたソ連が入っていました。戦争犯罪人が裁判をしたのです。「東京裁判」は普通の裁判ではなく、裁判の形式を取った敗戦国関係者の処刑作戦でした。ですから証拠もなく論理的に成立しません。さらに事実誤認までありました。出鱈目でした。ですから悪名高い中世の魔女裁判様式の復活と思えばよいのです。このころ、東京以外でもアジア各地で戦勝国は日本軍人を処刑しました。これは戦争が続いていたということなのであり、戦死でした。A級、B級戦犯といいますが、これは単に戦勝国の区分に過ぎず、日本人には関係がありません。日本人には、私たちが独立した今東京裁判には一切拘束されないことを確認しておきます。中世の政治学者マキャベッリは「無理強いされて結んだ協約を破棄するのは恥ずべき行為では全くない。協約が公的なものである場合、相手国の力が弱まるや否や、破棄される方が当然なのだ。歴史を見ればこのような例は枚挙に暇が無いほど多いことが分かる」と書いています。(「マキャベッリ語録(政略論)」塩野七生著 新潮文庫)。協定は何でも守ればよいということではないのです。自由になりましょう。米軍はすでにA級戦犯を祭った靖国神社に参拝しています。これは戦前ソ連に騙され日本を攻撃した米軍の非公式の謝罪と見ることが出来ます。

4-3.赤狩り=共産党鎮圧政策:
ドイツが1945年5月に降伏すると、共通の敵が無くなった米ソの間で対立が始まりました。ソ連が凶悪な本性を現し始めたのです。戦争中ソ連に軍用機1万機、その他膨大な軍需物資を援助してきた米国は、始めて自分が大間抜けであったことに気づきました。そして日本が降伏すると、ソ連は対米友好の仮面をかなぐり捨てて欧州、中央アジア、北東アジアで一挙に勢力拡大を始めました。米国は効果的な防衛策が取れずスターリンの思うままでした。ソ連は満州を占領すると中国共産党に降伏した日本軍の武器だけでなく、ソ連軍の武器弾薬を与えました。このため、国民党軍は1936年の西安事件による第2次国共協力が破れ、共産軍との内戦が始まると総崩れになりました。米国はこの状況を見ても中国の内戦に介入する意欲がなかったので、1936年まであれほど有力であり共産軍を追い詰めていた蒋介石と国民党軍閥は、1949年支那全土を共産軍に奪われ台湾に逃亡しました。ここにも西安事件と支那事変における蒋介石の誤りが証明されています。
1950年朝鮮戦争が勃発しました。スターリンが金日成を使って北朝鮮を作り、南朝鮮を攻撃させたのです。米国はこの時初めて共産軍の武力と正面からぶつかることになりました。朝鮮に駐屯していた米軍はたちまち南部に追い詰められ、全滅の危機に陥りました。
戦争はこの後中共軍の参戦があり、38度線で膠着状態になり、スターリンが死亡すると停戦状態となりました。ちなみに米占領軍は当時の吉田首相に日本軍を再建して朝鮮に出兵することを要請したといいます。吉田首相は占領憲法を盾に断ったといいます。米国がソ連に騙されて大東亜戦争で防共の日本を滅ぼし、今度は自分が防共に困って日本をまた使おうというのはさすがに虫がよすぎます。もし日本が出兵していたら大変な戦死者が出たでしょう。
米国ではマッカーシー上院議員が政府内のソ連の浸透を明確に指摘し大騒ぎになりました。これが赤狩りです。これにより政府内部のソ連スパイ200名以上ががようやく逮捕追放され米国政府は正常化しました。日本の左翼マスコミは赤狩りを不当としていますが、ソ連が1991年に崩壊し、ソ連のスパイ活動文書が公表されると、正当であったことがわかりました。反共政策が正しかったのです。それには日本の戦前の治安維持法も含まれます。戦前の日本共産党はソ連の対日工作機関でした。ですから共産主義者や社会主義者は犯罪国家の手先だったのです。したがって日本政府が彼らを鎮圧したのは正しかったのです。今だに戦前の左翼鎮圧政策を非難する日本のマスコミや学者は嘘をついており、完全に歴史意識が遅れていいます。

4-4..日本利用方針と独立:
米国はソ連との対立が強まる中で、かつてソ連に騙されて滅ぼした日本を利用するほうが得策であることに気づきました。
そこで日本破壊方針を変更しました。占領軍は担当していた左翼的な担当者を罷免し、日本復興を進めることとしました。公職を追放されていた有能な日本人は職場に復帰が許されました。そして1952年にサンフランシスコで対日講和条約を結び西側諸国が日本の独立を承認しました。これで日本は占領軍にくびきから自由になりました。しかし敗戦後にソ連が植え付け育成した共産主義者が政治、マスコミ、教育界にはびこり、日本の正常化を妨害して今日に至ります。思想的には1991年にソ連が崩壊して、共産主義の破産が証明された以上唯物論による左翼の反日イデオロギーは無効となりました。いま小泉内閣は戦後60年になって始めて占領憲法の改正を唱えています。ドイツは戦後すぐに占領憲法を廃止し、国防軍を再建し、国民皆兵の徴兵制度を敷いています。核兵器についても製造できる直前まで準備を終えています。日本は周回遅れどころではない、遅れ振りですが全国民の生命がかかっているので何としても正常化しなければなりません。

5.日本の復興:
日本はその後電気製品、自動車の開発に成功し、米国を主とする世界各国への輸出に成功しました。特に米国市場で大きな利益を上げ繁栄を始め、今では世界第二位の経済力を持つ大国家となりました。戦争の敗北を立派に回復したのです。国民も一億三千万となり大東亜戦争の戦死者300万人を取り戻しました。長い歴史を持つ国家にとり戦争は一時の嵐のようなものです。大事なのは復興することです。その意味で日本は立派に復興しました。もはや60年前の敗戦意識を引きずることは無いのです。我々は立派に盛り返したのです。戦争の敗戦を克服し、トータルの国際生存競争に立派に勝ったのです。