天保7年(1836)、但馬国生まれ。開拓権判事、元老院少書記官などを経て、京都府知事に着任。北垣知事も勧業政策に重きを置いたが、槙村時代の強権手法と異なり、府会や府民も巻き込みながら老練に府政を推進した。在任11年の間、琵琶湖疎水建設、京都商工会議所創設など数々の実績をあげた。文字どおり骨を埋める覚悟で京都府の発展に力を尽くし、退任の送別会には1200人もの人が参加して別れを惜しんだ。のち内務次官、北海道庁長官となり、晩年は「静屋」と号して京都で自適生活を送った。
ヒトダレ ヤマイ ウレ シコウ
人誰カ病アルヲ患イザラン。而シテ、病因の豫
ケダシ ガタ イヤシク ヨ
防シ難キ。蓋、癲狂者ヨリ難キハナシ。苟モ能
ク之ヲ治セハ、霖雨ノ晴ニ逢ヒ、暗夜ニ燭ヲ
イチジツシク
得ルカ如シ。又、誰カ快楽ノ著シテ、効益ノ
アラワ カツテ
最モ顕ナルヲ感セサラン。本府、嘗テ癲狂
ココ ヨウヤク クワ
院ヲ置ク。茲ニ八年其方術、漸ク精シク、
ソレスデ
入院ノ患者年々多ク、其已ニ治効ヲ
ミ シカ
観ルモノ若干人。然ルニ本年本月ヲ限リ、之
モト
ヲ癈スルニ至ル。因ヨリ國道ノ本意非ス。実ニ
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止ヲ得サルニ出ツ。李家隆彦等、之ヲ憂
ハカ フルッ モッ
ヒ諸有志ニ謀ル。有志者奮テ、私立以
ツイ
テ其業ヲ継ント欲ス。遂ニ本日開業
アニ ヤ コイネガワ
式ヲ行ウニ及ヘリ。豈、嘆賞セサラン哉。冀ク
マスマス
ハ諸有志益其志ヲ堅クシ、又、其術ヲ
カヤ
勉メハ本府創立ノ切。亦地ニ隆サルヘキ欺。
之ヲ祝辞ト為ス
明治一五年十月十日
京都府知事従五位北垣國道